ひだ》の云ひ過ごしは堪忍して呉れ、斯様した我の心意気が解つて呉れたら従来《いままで》通り浄く睦じく交際《つきあ》つて貰はう、一切が斯様定つて見れば何と思つた彼と思つたは皆夢の中の物詮議、後に遺して面倒こそあれ益《やく》無いこと、此不忍の池水にさらりと流して我も忘れう、十兵衞汝も忘れて呉れ、木材《きしな》の引合ひ、鳶人足《とび》への渡りなんど、まだ顔を売込んで居ぬ汝には一寸仕憎からうが、其等には我の顔も貸さうし手も貸さう、丸丁、山六、遠州屋、好い問屋は皆馴染で無うては先方《さき》が此方を呑んでならねば、万事歯痒い事の無いやう我を自由に出しに使へ、め組の頭の鋭次といふは短気なは汝も知つて居るであらうが、骨は黒鉄《くろがね》、性根玉は憚りながら火の玉だと平常《ふだん》云ふだけ、扨じつくり頼めばぐつと引受け一寸退かぬ頼母しい男、塔は何より地行が大事、空風火水の四ツを受ける地盤の固めを彼にさせれば、火の玉鋭次が根性だけでも不動が台座の岩より堅く基礎《いしずゑ》確と据さすると諸肌ぬいで仕て呉るゝは必定、彼《あれ》にも頓て紹介《ひきあは》せう、既此様なつた暁には源太が望みは唯一ツ、天晴十兵衞汝が能く仕出来しさへすりや其で好のぢや、唯※[#二の字点、1−2−22]塔さへ能く成《でき》れば其に越した嬉しいことは無い、苟且《かりそめ》にも百年千年末世に残つて云はゞ我等《おれたち》の弟子筋の奴等が眼にも入るものに、へまがあつては悲しからうではないか、情無いではなからうか、源太十兵衞時代には此様な下らぬ建物に泣たり笑つたり仕たさうなと云はれる日には、なあ十兵衞、二人が舎利《しやり》も魂魄《たましひ》も粉灰にされて消し飛ばさるゝは、拙《へた》な細工で世に出ぬは恥も却つて少ないが、遺したものを弟子め等に笑はる日には馬鹿親父が息子に異見さるゝと同じく、親に異見を食ふ子より何段増して恥かしかろ、生磔刑《いきばりつけ》より死んだ後塩漬の上磔刑になるやうな目にあつてはならぬ、初めは我も是程に深くも思ひ寄らなんだが、汝が我の対面《むかう》にたつた其意気張から、十兵衞に塔建てさせ見よ源太に劣りはすまいといふか、源太が建てゝ見せくれう何十兵衞に劣らうぞと、腹の底には木を鑽《き》つて出した火で観る先の先、我意は何《なんに》も無くなつた唯だ好く成て呉れさへすれば汝も名誉《ほまれ》我も悦び、今日は是だけ云ひたいばかり、嗚呼十兵衞其大きな眼を湿ませて聴て呉れたか嬉しいやい、と磨いて礪《と》いで礪ぎ出した純粋《きつすゐ》江戸ッ子粘り気無し、一《ぴん》で無ければ六と出る、忿怒《いかり》の裏の温和《やさし》さも飽まで強き源太が言葉に、身|動《じろ》ぎさへせで聞き居し十兵衞、何も云はず畳に食ひつき、親方、堪忍して下され口がきけませぬ、十兵衞には口がきけませぬ、こ、こ、此通り、あゝ有り難うござりまする、と愚魯《おろか》しくもまた真実《まこと》に唯|平伏《ひれふ》して泣き居たり。
其二十二
言葉は無くても真情《まこと》は見ゆる十兵衞が挙動《そぶり》に源太は悦び、春風|湖《みづ》を渡つて霞日に蒸すともいふべき温和の景色を面にあらはし、尚もやさしき語気|円暢《なだらか》に、斯様打解けて仕舞ふた上は互に不妙《まづい》ことも無く、上人様の思召にも叶ひ我等《おれたち》の一分も皆立つといふもの、嗚呼何にせよ好い心持、十兵衞|汝《きさま》も過してくれ、我も充分今日こそ酔はう、と云ひつゝ立つて違棚に載せて置たる風呂敷包とりおろし、結び目といて二束《ふたつかね》にせし書類《かきもの》いだし、十兵衞が前に置き、我にあつては要なき此品《これ》の、一ツは面倒な材木《きしな》の委細《くはし》い当りを調べたのやら、人足軽子其他|種※[#二の字点、1−2−22]《さま/″\》の入目を幾晩かかゝつて漸く調べあげた積り書、又一ツは彼所《あすこ》を何して此所《こゝ》を斯してと工夫に工夫した下絵図、腰屋根の地割だけなもあり、平地割だけなのもあり、初重の仕形だけのもあり、二手先または三手先、出組《だしぐみ》ばかりなるもあり、雲形波形唐草|生類彫物《しやうるゐほりもの》のみを書きしもあり、何より彼より面倒なる真柱から内法《うちのり》長押《なげし》腰長押切目長押に半長押、椽板椽かつら亀腹柱高欄垂木|桝《ます》肘木《ひぢき》、貫《ぬき》やら角木《すみぎ》の割合算法、墨縄《すみ》の引きやう規尺《かね》の取り様余さず洩さず記せしもあり、中には我の為しならで家に秘めたる先祖の遺品《かたみ》、外へは出せぬ絵図もあり、京都《きやう》やら奈良の堂塔を写しとりたるものもあり、此等は悉皆《みんな》汝に預くる、見たらば何かの足しにもなろ、と自己《おの》が精神《こゝろ》を籠めたるものを惜気もなしに譲りあたふる、胸の広さの頼母しきを解
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