美味《うま》うは受けとらぬに、平常《つね》は六碗七碗を快う喫《く》ひしも僅に一碗二碗で終へ、茶ばかり却つて多く飲むも、心に不悦《まづさ》の有る人の免れ難き慣例《ならひ》なり。
主人《あるじ》が浮かねば女房も、何の罪なき頑要《やんちや》ざかりの猪之まで自然《おのづ》と浮き立たず、淋しき貧家のいとゞ淋しく、希望《のぞみ》も無ければ快楽《たのしみ》も一点あらで日を暮らし、暖味のない夢に物寂た夜を明かしけるが、お浪|暁天《あかつき》の鐘に眼覚めて猪之と一所に寐たる床より密《そつ》と出るも、朝風の寒いに火の無い中から起すまじ、も少し睡《ね》させて置かうとの慈《やさ》しき親の心なるに、何も彼も知らいでたわい無く寐て居し平生《いつも》とは違ひ、如何せしことやら忽ち飛び起き、襦袢一つで夜具の上跳ね廻り跳ね廻り、厭ぢやい厭ぢやい、父様を打つちや厭ぢやい、と蕨《わらび》のやうな手を眼にあてゝ何かは知らず泣き出せば、ゑゝこれ猪之は何したものぞ、と吃驚しながら抱き止むるに抱かれながらも猶泣き止まず。誰も父様を打ちは仕ませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寐て居らるゝ、と顔を押向け知らすれば不思議さうに覗き込で、漸く安心しは仕てもまだ疑惑《うたがひ》の晴れぬ様子。
猪之や何にも有りはし無いは、夢を見たのぢや、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床に這入つて寐て居るがよい、と引き倒すやうにして横にならせ、掻巻かけて隙間無きやう上から押しつけ遣る母の顔を見ながら眼をぱつちり、あゝ怖かつた、今|他所《よそ》の怖い人が。おゝおゝ、如何か仕ましたか。大きな、大きな鉄槌《げんのう》で、黙つて坐つて居る父様の、頭を打つて幾度《いくつ》も打つて、頭が半分|砕《こは》れたので坊は大変吃驚した。ゑゝ鶴亀※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]、厭なこと、延喜《えんぎ》でも無いことを云ふ、と眉を皺むる折も折、戸外《おもて》を通る納豆売りの戦《ふる》へ声に覚えある奴が、ちェッ忌※[#二の字点、1−2−22]しい草鞋が切れた、と打独語《うちつぶや》きて行き過ぐるに女房ます/\気色を悪《あし》くし、台所に出て釜の下を焚きつくれば思ふ如く燃えざる薪《まき》も腹立しく、引窓の滑よく明かぬも今更のやうに焦れつたく、嗚呼何となく厭な日と思ふも心からぞとは知りながら、猶気になる事のみ気にすればにや多けれど、また云ひ出さば笑はれむと自分で呵《しか》つて平日《いつも》よりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、溌※[#二の字点、1−2−22]《いき/\》として夫をあしらひ子をあしらへど、根が態とせし偽飾《いつはり》なれば却つて笑ひの尻声が憂愁《うれひ》の響きを遺して去る光景《ありさま》の悲しげなるところへ、十兵衞殿お宅か、と押柄《あふへい》に大人びた口きゝながら這入り来る小坊主、高慢にちよこんと上り込み、御用あるにつき直と来られべしと前後《あとさき》無しの棒口上。
お浪も不審、十兵衞も分らぬことに思へども辞《いな》みもならねば、既《はや》感応寺の門くゞるさへ無益《むやく》しくは考へつゝも、何御用ぞと行つて問へば、天地顛倒こりや何《どう》ぢや、夢か現か真実か、圓道右に爲右衞門左に朗圓上人|中央《まんなか》に坐したまふて、圓道言葉おごそかに、此度|建立《こんりふ》なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべき筈のところ、方丈思しめし寄らるゝことあり格別の御詮議例外の御慈悲をもつて、十兵衞其方に確《しか》と御任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早※[#二の字点、1−2−22]ありがたく御受申せ、と云ひ渡さるゝそれさへあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衞よ、思ふ存分|仕遂《しと》げて見い、好う仕上らば嬉しいぞよ、と荷担《になふ》に余る冥加の御言葉。のつそりハッと俯伏せしまゝ五体を濤《なみ》と動《ゆる》がして、十兵衞めが生命はさ、さ、さし出しまする、と云ひし限《ぎ》り喉《のど》塞《ふさ》がりて言語絶え、岑閑《しんかん》とせし広座敷に何をか語る呼吸の響き幽《かすか》にしてまた人の耳に徹しぬ。
其二十一
紅蓮白蓮の香《にほひ》ゆかしく衣袂《たもと》に裾に薫り来て、浮葉に露の玉|動《ゆら》ぎ立葉に風の軟《そよ》吹《ふ》ける面白の夏の眺望《ながめ》は、赤蜻蛉|菱藻《ひしも》を嬲《なぶ》り初霜向ふが岡の樹梢《こずゑ》を染めてより全然《さらり》と無くなつたれど、赭色《たいしや》になりて荷《はす》の茎ばかり情無う立てる間に、世を忍び気《げ》の白鷺が徐※[#二の字点、1−2−22]《そろり》と歩む姿もをかしく、紺青色に暮れて行く天《そら》に漸く輝《ひか》り出す星を脊中に擦つて飛ぶ雁の、鳴き渡る音も趣味《おもむき》ある不忍の池の景色を下物《さかな》の外の下物にして
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