の冷たいに破傷風にでもなつたら何となさる、どうか臥むで居て下され、お湯ももう直沸きませうほどに含嗽《うがひ》手水《てうづ》も其所で妾が為せてあげませう、と破土竃《やぶれべつつひ》にかけたる羽虧《はか》け釜の下焚きつけながら気を揉んで云へど、一向平気の十兵衞笑つて、病人あしらひにされるまでの事はない、手拭だけを絞つて貰へば顔も一人で洗ふたが好い気持ぢや、と箍《たが》の緩みし小盥に自ら水を汲み取りて、別段悩める容態《やうす》も無く平日《ふだん》の如く振舞へば、お浪は呆れ且つ案ずるに、のつそり少しも頓着せず朝食《あさめし》終ふて立上り、突然《いきなり》衣物を脱ぎ捨てゝ股引腹掛|着《つけ》にかゝるを、飛んでも無い事何処へ行かるゝ、何程仕事の大事ぢやとて昨日の今日は疵口の合ひもすまいし痛みも去るまじ、泰然《ぢつ》として居よ身体を使ふな、仔細は無けれど治癒《なほ》るまでは万般《よろづ》要慎《つゝしみ》第一と云はれた御医者様の言葉さへあるに、無理圧して感応寺に行かるゝ心か、強過ぎる、仮令行つたとて働きはなるまじ、行かいでも誰が咎めう、行かで済まぬと思はるゝなら妾が一寸《ちよと》一[#(ト)]走り、お上人様の御目にかゝつて三日四日の養生を直※[#二の字点、1−2−22]に願ふて来ましよ、御慈悲深いお上人様の御承知なされぬ気遣ひない、かならず大切《だいじ》にせい軽挙《かるはずみ》すなと仰やるは知れた事、さあ此衣《これ》を着て家に引籠み、せめて疵口《くち》の悉皆《すつかり》密着《くつつ》くまで沈静《おちつい》て居て下され、と只管とゞめ宥め慰め、脱ぎしをとつて復《また》被《き》すれば、余計な世話を焼かずとよし、腹掛着せい、これは要らぬ、と利く右の手にて撥ね退くる。まあ左様云はずと家に居て、とまた打被する、撥ね退くる、男は意気地女は情、言葉あらそひ果しなければ流石にのつそり少し怒つて、訳の分らぬ女の分で邪魔立てするか忌※[#二の字点、1−2−22]しい奴、よし/\頼まぬ一人で着る、高の知れたる蚯蚓膨《みゝずばれ》に一日なりとも仕事を休んで職人共の上《かみ》に立てるか、汝《うぬ》は少《ちつと》も知るまいがの、此十兵衞はおろかしくて馬鹿と常※[#二の字点、1−2−22]云はるゝ身故に職人共が軽う見て、眼の前では我が指揮《さしづ》に従ひ働くやうなれど、蔭では勝手に怠惰《なまけ》るやら譏《そし》るやら散※[#二の字点、1−2−22]に茶にして居て、表面《うはべ》こそ粧《つくろ》へ誰一人真実仕事を好くせうといふ意気組持つて仕てくるゝものは無いは、ゑゝ情無い、如何かして虚飾《みえ》で無しに骨を折つて貰ひたい、仕事に膏《あぶら》を乗せて貰ひたいと、諭せば頭は下げながら横向いて鼻で笑はれ、叱れば口に謝罪られて顔色《かほつき》に怒られ、つく/″\我折つて下手に出れば直と増長さるゝ口惜さ悲しさ辛さ、毎日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]棟梁※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と大勢に立てられるは立派で可けれど腹の中では泣きたいやうな事ばかり、いつそ穴鑿りで引使はれたはうが苦しうないと思ふ位、其中で何か斯か此日《こゝ》まで運ばして来たに今日休んでは大事の躓き、胸が痛いから早帰りします、頭痛がするで遅くなりましたと皆《みんな》に怠惰《なまけ》られるは必定、其時自分が休んで居れば何と一言云ひ様なく、仕事が雨垂拍子になつて出来べきものも仕損ふ道理、万が一にも仕損じてはお上人様源太親方に十兵衞の顔が向られうか、これ、生きても塔が成《でき》ねばな、此十兵衞は死んだ同然、死んでも業を仕遂げれば汝《うぬ》が夫《おやぢ》は生て居るはい、二寸三寸の手斧傷に臥て居られるか居られぬ歟、破傷風が怖しい歟仕事の出来ぬが怖しい歟、よしや片腕奪られたとて一切成就の暁までは駕籠に乗つても行かでは居ぬ、ましてや是しきの蚯蚓膨に、と云ひつゝお浪が手中より奪ひとつたる腹掛に、左の手を通さんとして顰《しか》むる顔、見るに女房の争へず、争ひまけて傷をいたはり、遂に半天股引まで着せて出しける心の中、何とも口には云ひがたかるべし。
十兵衞よもや来はせじと思ひ合ふたる職人共、ちらりほらりと辰の刻頃より来て見て吃驚する途端、精出して呉るゝ嬉しいぞ、との一言を十兵衞から受けて皆冷汗をかきけるが、是より一同《みな/\》励み勤め昨日に変る身のこなし、一をきいては三まで働き、二と云はれしには四まで動けば、のつそり片腕の用を欠いて却て多くの腕を得つ日※[#二の字点、1−2−22]|工事《しごと》捗取《はかど》り、肩疵治る頃には大抵塔も成《でき》あがりぬ。
其三十一
時は一月の末つ方、のつそり十兵衞が辛苦経営むなしからで、感応寺生雲塔いよ/\物の見事に出来上り、
前へ
次へ
全34ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング