うまく食わなかったりなんかした時に、魚というものは必ず何かの蔭にいるものですから、それを釣るのです。鳥は木により、さかなはかかり、人は情《なさけ》の蔭による、なんぞという「よしこの」がありますが、かかりというのは水の中にもさもさしたものがあって、其処《そこ》に網を打つことも困難であり、釣鉤《つりばり》を入れることも困難なようなひっかかりがあるから、かかりと申します。そのかかりにはとかくに魚が寄るものであります。そのかかりの前へ出掛けて行って、そうしてかかりと擦《す》れ擦れに鉤《はり》を打込む、それがかかり前の釣といいます。澪だの平場《ひらば》だので釣れない時にかかり前に行くということは誰もすること。またわざわざかかりへ行きたがる人もある位。古い澪杙《みよぐい》、ボッカ、われ舟、ヒビがらみ、シカケを失うのを覚悟の前にして、大様《おおよう》にそれぞれの趣向で遊びます。いずれにしても大名釣《だいみょうづり》といわれるだけに、ケイズ釣は如何にも贅沢に行われたものです。
ところで釣の味はそれでいいのですが、やはり釣は根《ね》が魚を獲《と》るということにあるものですから、余り釣れないと遊びの世界も狭くなります。或《ある》日のこと、ちっとも釣れません。釣れないというと未熟な客はとかくにぶつぶつ船頭に向って愚痴《ぐち》をこぼすものですが、この人はそういうことを言うほどあさはかではない人でしたから、釣れなくてもいつもの通りの機嫌でその日は帰った。その翌日も日取りだったから、翌日もその人はまた吉公《きちこう》を連れて出た。ところが魚というのは、それは魚だからいさえすれば餌《えさ》があれば食いそうなものだけれども、そうも行かないもので、時によると何かを嫌って、例えば水を嫌うとか風を嫌うとか、あるいは何か不明な原因があってそれを嫌うというと、いても食わないことがあるもんです。仕方がない。二日ともさっぱり釣れない。そこで幾《いく》ら何でもちっとも釣れないので、吉公は弱りました。小潮《こじお》の時なら知らんこと、いい潮に出ているのに、二日ともちっとも釣れないというのは、客はそれほどに思わないにしたところで、船頭に取っては面白くない。それも御客が、釣も出来ていれば人間も出来ている人で、ブツリとも言わないでいてくれるのでかえって気がすくみます。どうも仕様がない。が、どうしても今日は土産《みやげ》
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