る、むやみに多く歌舞《かぶ》を提供させるのが好いと思っているような人は、まだまるで遊びを知らないのと同じく、魚にばかりこだわっているのは、いわゆる二才客《にさいきゃく》です。といって釣に出て釣らなくても可《よ》いという理屈はありませんが、アコギに船頭を使って無理にでも魚を獲ろうというようなところは通り越している人ですから、老船頭の吉でも、かえってそれを好いとしているのでした。
 ケイズ釣というのは釣の中でもまた他の釣と様子が違う。なぜかと言いますと、他の、例えばキス釣なんぞというのは立込《たちこ》みといって水の中へ入っていたり、あるいは脚榻釣《きゃたつつり》といって高い脚榻を海の中へ立て、その上に上《あが》って釣るので、魚のお通りを待っているのですから、これを悪く言う者は乞食釣《こじきづり》なんぞと言う位で、魚が通ってくれなければ仕様がない、みじめな態《ざま》だからです。それからまたボラ釣なんぞというものは、ボラという魚が余り上等の魚でない、群れ魚ですから獲れる時は重たくて仕方がない、担《にな》わなくては持てないほど獲れたりなんぞする上に、これを釣る時には舟の艫《とも》の方へ出まして、そうして大きな長い板子《いたご》や楫《かじ》なんぞを舟の小縁《こべり》から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらしにヤタ一《いち》の客よりわるいかっこうをして釣るのでありまするから、もう遊びではありません。本職の漁師みたいな姿になってしまって、まことに哀《あわ》れなものであります。が、それはまたそれで丁度そういう調子合《ちょうしあい》のことの好きな磊落《らいらく》な人が、ボラ釣は豪爽《ごうそう》で好いなどと賞美する釣であります。が、話中の人はそんな釣はしませぬ。ケイズ釣りというのはそういうのと違いまして、その時分、江戸の前の魚はずっと大川《おおかわ》へ奥深く入りましたものでありまして、永代橋《えいたいばし》新大橋《しんおおはし》より上流《かみ》の方でも釣ったものです。それですから善女《ぜんにょ》が功徳《くどく》のために地蔵尊《じぞうそん》の御影《ごえい》を刷った小紙片《しょうしへん》を両国橋《りょうごくばし》の上からハラハラと流す、それがケイズの眼球《めだま》へかぶさるなどという今からは想像も出来ないような穿《うが》ちさえありました位です。
 で、川のケイズ釣は川の深い処で釣る場
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