摘《つ》みながら歌を唄《うた》っていて、今しも一人《ひとり》が、

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わたしぁ桑摘む主《ぬし》ぁ※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62、52−2]《きざ》まんせ、春蚕《はるご》上簇《あが》れば二人《ふたり》着る。
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と唱い終ると、また他の一人が声張り上げて、

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桑を摘め摘め、爪紅《つまべに》さした 花洛《みやこ》女郎衆《じょろしゅ》も、桑を摘め。
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と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄《す》んだ声で、断《た》えず鳴る笛吹川の川瀬《かわせ》の音をもしばしは人の耳から逐《お》い払ってしまったほどであった。
 これを聞くとかの急ぎ歩《あし》で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅《おそ》くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興《うちきょう》じて笑い声を洩《も》らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉《は》越《ごし》に紅いや青い色をちらつかせながら余念も無しに葉を摘むと見えて、しばしは静《しずか》であったが、また前の二人《ふたり》とは違《ちが》った声で、

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桑は摘みたし梢《こずえ》は高し、
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と唄い出したが、この声は前のように無邪気《むじゃき》に美しいのでは無かった。そうするとこれを聞いたこなたの汚《きたな》い衣服《なり》の少年は、その眼鼻立《めはなだち》の悪く無い割には無愛想《ぶあいそう》で薄淋《うすさみ》しい顔に、いささか冷笑《あざわら》うような笑《わらい》を現わした。唱《うた》の主《ぬし》はこんな事を知ろうようは無いから、すぐと続いて、

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誰に負われて摘んで取ろ。
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と唄い終ったが、末の摘んで取ろの一句だけにはこちらの少年も声を合わせて弥次馬《やじうま》と出掛《でか》けたので、歌の主は吃驚《びっくり》してこちらを透《す》かして視《み》たらしく、やがて笑いを帯びた大きな声で、
「源三《げんぞう》さんだよ、憎《にく》らしい。」
と誰に云ったのだか分らない語《ことば》を出しながら、いかにも蓮葉《はすは》に圃《はたけ》から出離れて、そして振り返って手招《てまね》ぎをして、
「源三さんだって云えば、お浪《なみ》さん。
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