位の狭さであつた。間《あひ》の襖を締切つて、そこに在つた小さな机の上に洋燈を置き、同じくそこに在つた小坐蒲団の上に身を置くと、初めて安堵して我に返つたやうな気がした。同時に寒さが甚く身に染《し》みて胴顫《どうぶるひ》がした。そして何だかがつかりしたが、漸く落ついて来ると、□□さんと自分の苗字を云はれたのが甚く気になつた。若僧も告げなければ自分も名乗らなかつたのであるのに、特《こと》に全くの聾になつてゐるらしいのに、何様して知つてゐたらうと思つたからである。然しそれは蔵海が指頭《ゆびさき》で談り聞かせたからであらうと解釈して、先づ解釈は済ませて仕舞つた。寝ようか、此儘に老僧の真似をして暁に達して仕舞はうかと、何か有らうと云つて呉れた押入らしいものを見ながら一寸考へたが、気がついて時計を出して見た。時計の針は三時少し過ぎであることを示してゐた。三時少し過ぎて居るから、三時少し過ぎてゐるのだ。驚くことは何も無いのだが、大器氏は又驚いた。ヂッと時計の文字盤を見詰めたが、遂に時計を引出して、洋燈の下、小机の上に置いた。秒針はチ、チ、チ、チと音を立てた。音がするのだから、音が聞えるのだ。驚くことは何も無いのだが、大器氏は又驚いた。そして何だか知らずにハッと思つた。すると戸外《そと》の雨の音はザアッと続いて居た。時計の音は忽ち消えた。眼が見てゐる秒針の動きは止まりはしなかつた、確実な歩調で動いて居た。
 何となく妙な心持になつて頭を動かして室内を見廻はした。洋燈の光がボーッと上を照らして居るところに、煤びた額が掛つてゐるのが眼に入つた。間抜な字体で何の語かが書いてある。一字づゝ心を留めて読んで見ると、
 橋流水不流
とあつた。橋流れて水流れず、橋流れて水流れず、ハテナ、橋流れて水流れず、と口の中で扱ひ、胸の中で咬《か》んで居ると、忽ち昼間渡つた仮そめの橋が洶※[#二の字点、1−2−22]《きよう/\》と流れる渓川の上に架渡されて居た景色が眼に浮んだ。水はどう/\と流れる、橋は心細く架渡されてゐる。橋流れて水流れず。ハテ何だか解ら無い。シーンと考へ込んでゐると、忽ち誰だか知らないが、途方も無い大きな声で
 橋流れて水流れず
と自分の耳の側《はた》で怒鳴りつけた奴が有つて、ガーンとなつた。
 フト大器氏は自ら嘲つた。ナンダこんな事、とかく此様《こん》な変な文句が額なんぞには書いてある
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