張らせて威張《いば》って馬に騎《の》っている官人《かんじん》のようなものもあり、跣足《はだし》で柳条《りゅうじょう》に魚の鰓《あぎと》を穿《うが》った奴をぶらさげて川から上《あが》って来たらしい漁夫もあり、柳がところどころに翠烟《すいえん》を罩《こ》めている美しい道路を、士農工商|樵漁《しょうぎょ》、あらゆる階級の人※[#二の字点、1−2−22]が右徃左徃《うおうさおう》している。綺錦《ききん》の人もあれば襤褸《らんる》の人もある、冠《かぶ》りものをしているのもあれば露頂《ろちょう》のものもある。これは面白い、春江《しゅんこう》の景色に併せて描いた風俗画だナと思って、また段※[#二の字点、1−2−22]に燈《ともしび》を移して左の方へ行くと、江岸がなだらになって川柳が扶疎《ふそ》としており、雑樹《ぞうき》がもさもさとなっているその末には蘆荻《ろてき》が茂っている。柳の枝や蘆荻の中には風が柔らかに吹いている。蘆《あし》のきれ目には春の水が光っていて、そこに一|艘《そう》の小舟が揺れながら浮いている。船は※[#「竹かんむり/遽」、80−1]※[#「竹かんむり/除」、80−1]《あじろ》を編んで日除《ひよけ》兼|雨除《あまよけ》というようなものを胴《どう》の間《ま》にしつらってある。何やら火爐《こんろ》だの槃※[#「石+喋のつくり」、第4水準2−82−46]《さら》だのの家具も少し見えている。船頭の老夫《じいさん》は艫《とも》の方に立上《たちあが》って、※[#「爿+戈」、第4水準2−12−83]※[#「爿+可」、80−3]《かしぐい》に片手をかけて今や舟を出そうとしていながら、片手を挙げて、乗らないか乗らないかといって人を呼んでいる。その顔がハッキリ分らないから、大噐氏は燈火《ともしび》を段※[#二の字点、1−2−22]と近づけた。遠いところから段※[#二の字点、1−2−22]と歩み近づいて行くと段※[#二の字点、1−2−22]と人顔《ひとがお》が分って来るように、朦朧《もうろう》たる船頭の顔は段※[#二の字点、1−2−22]と分って来た。膝ッ節《ぷし》も肘《ひじ》もムキ出しになっている絆纏《はんてん》みたようなものを着て、極※[#二の字点、1−2−22]《ごくごく》小さな笠を冠《かぶ》って、やや仰いでいる様子は何ともいえない無邪気なもので、寒山《かんざん》か拾得《じっとく》の叔父さんにでも当る者に無学文盲のこの男があったのではあるまいかと思われた。オーイッと呼《よば》わって船頭さんは大きな口をあいた。晩成先生は莞爾《かんじ》とした。今行くよーッと思わず返辞をしようとした。途端に隙間を漏《も》って吹込んで来た冷たい風に燈火《ともしび》はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ飄《ひょう》として来たが、また近くから遠くへ飄として去った。唯《ただ》これ一瞬の事で前後はなかった。
 屋外《そと》は雨の音、ザアッ。


 大噐晩成先生はこれだけの談《はなし》を親しい友人に告げた。病気はすべて治った。が、再び学窓にその人は見《あら》われなかった。山間水涯《さんかんすいがい》に姓名を埋《うず》めて、平凡人となり了《おお》するつもりに料簡をつけたのであろう。或《ある》人は某地にその人が日に焦《や》けきったただの農夫となっているのを見たということであった。大噐|不成《ふせい》なのか、大噐|既成《きせい》なのか、そんな事は先生の問題ではなくなったのであろう。
[#地から1字上げ](大正十四年七月)



底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第四巻」岩波書店
   1953(昭和28)年3月刊
入力:土屋隆
校正:オーシャンズ3
2008年1月15日作成
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