に白泡《しらあわ》を立てて沸《たぎ》り流れたりした。或|場処《ばしょ》は路が対岸に移るようになっているために、危《あやう》い略※[#「彳+勺」、52−12]《まるきばし》が目の眩《くるめ》くような急流に架《かか》っているのを渡ったり、また少時《しばらく》して同じようなのを渡り反《かえ》ったりして進んだ。恐ろしい大きな高い巌《いわ》が前途《ゆくて》に横たわっていて、あのさきへ行くのか知らんと疑われるような覚束《おぼつか》ない路を辿《たど》って行くと、辛《かろ》うじてその岩岨《いわそば》に線《いと》のような道が付いていて、是非なくも蟻《あり》の如く蟹《かに》の如くになりながら通り過ぎてはホッと息を吐《つ》くこともあって、何だってこんな人にも行会《ゆきあ》わぬいわゆる僻地窮境《へきちきゅうきょう》に来たことかと、聊《いささ》か後悔する気味にもならざるを得ないで、薄暗いほどに茂った大樹《たいじゅ》の蔭に憩いながら明るくない心持の沈黙を続けていると、ヒーッ、頭の上から名を知らぬ禽《とり》が意味の分らぬ歌を投げ落したりした。
路が漸《ようや》く緩《なる》くなると、対岸は馬鹿※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]しく高い巌壁《がんぺき》になっているその下を川が流れて、こちらは山が自然に開けて、少しばかり山畠《やまばたけ》が段※[#二の字点、1−2−22]を成して見え、粟《あわ》や黍《きび》が穂を垂れているかとおもえば、兎《うさぎ》に荒されたらしいいたって不景気な豆畠に、もう葉を失って枯れ黒んだ豆がショボショボと泣きそうな姿をして立っていたりして、その彼方《むこう》に古ぼけた勾配の急な茅屋《かやや》が二軒三軒と飛び飛びに物悲しく見えた。天《そら》は先刻《さっき》から薄暗くなっていたが、サーッというやや寒い風が下《おろ》して来たかと見る間《ま》に、楢《なら》や槲《かしわ》の黄色な葉が空からばらついて降って来ると同時に、木《こ》の葉の雨ばかりではなく、ほん物の雨もはらはらと遣《や》って来た。渓《たに》の上手《かみて》の方を見あげると、薄白い雲がずんずんと押して来て、瞬く間に峯巒《ほうらん》を蝕《むしば》み、巌を蝕み、松を蝕み、忽《たちま》ちもう対岸の高い巌壁をも絵心《えごころ》に蝕んで、好い景色を見せてくれるのは好かったが、その雲が今開いてさしかざした蝙蝠傘《こうもり》の上にまで蔽いかぶさったかと思うほど低く這下《はいさが》って来ると、堪《たま》らない、ザアッという本降《ほんぶ》りになって、林木《りんぼく》も声を合せて、何の事はないこの山中に入って来た他国者《たこくもの》をいじめでもするように襲った。晩成先生もさすがに慌《あわ》て心《ごころ》になって少し駆け出したが、幸い取付《とりつ》きの農家は直《すぐ》に間近《まぢか》だったから、トットットッと走り着いて、農家の常の土間へ飛び込むと、傘が触って入口の檐《のき》に竿を横たえて懸け吊《つる》してあった玉蜀黍《とうもろこし》の一把《いちわ》をバタリと落した途端に、土間の隅の臼《うす》のあたりにかがんでいたらしい白い庭鳥《にわとり》が二、三羽キャキャッと驚いた声を出して走り出した。
何だナ、
と鈍《にぶ》い声をして、土間の左側の茶の間から首を出したのは、六十か七十か知れぬ白髪《しらが》の油気《あぶらけ》のない、火を付けたら心よく燃えそうに乱れ立ったモヤモヤ頭な婆さんで、皺《しわ》だらけの黄色い顔の婆さんだった。キマリが悪くて、傘を搾《すぼ》めながらちょっと会釈して、寺の在処《ありか》を尋ねた晩成先生の頭上から、じたじた水の垂れる傘のさきまでを見た婆さんは、それでもこの辺には見慣れぬ金釦《きんボタン》の黒い洋服に尊敬を表《あらわ》して、何一つ咎立《とがめだて》がましいこともいわずに、
上へ上へと行げば、じねんにお寺の前へ出ます、此処《ここ》はいわば門前村《もんぜんむら》ですから、人家さえ出抜ければ、すぐお寺で。
礼をいって大噐|氏《し》はその家を出た。雨はいよいよ甚《ひど》くなった。傘を拡げながら振返って見ると、木彫《きぼり》のような顔をした婆さんはまだこちらを見ていたが、妙にその顔が眼にしみ付いた。
間遠《まどお》に立っている七、八軒の家の前を過ぎた。どの家も人がいないように岑閑《しんかん》としていた。そこを出抜けるとなるほど寺の門が見えた。瓦《かわら》に草が生えている、それが今雨に湿《ぬ》れているので甚《ひど》く古びて重そうに見えるが、とにかくかなりその昔の立派さが偲《しの》ばれると同時に今の甲斐《かい》なさが明らかに現われているのであった。門を入ると寺内は思いのほかに廓落《からり》と濶《ひろ》くて、松だか杉だか知らぬが恐ろしい大きな木があったのを今より何年か前に斫《き
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