先へ立った。提灯の火はガランとした黒い大きな台所に憐れに小さな威光を弱※[#二の字点、1−2−22]と振った。外は真暗《まっくら》で、雨の音は例の如くザアッとしている。
気をつけてあげろ、ナ。
と和尚は親切だ。高※[#二の字点、1−2−22]《たかだか》とズボンを捲《まく》り上げて、古草鞋《ふるわらじ》を着けさせられた晩成|子《し》は、何処《どこ》へ行くのだか分らない真黒暗《まっくらやみ》の雨の中を、若僧に随《したが》って出た。外へ出ると驚いた。雨は横振《よこぶ》りになっている、風も出ている。川鳴《かわなり》の音だろう、何だか物凄《ものすご》い不明の音がしている。庭の方へ廻ったようだと思ったが、建物を少し離れると、なるほどもう水が来ている。足の裏が馬鹿に冷《つめた》い。親指が没する、踝《くるぶし》が没する、脚首《あしくび》が全部没する、ふくら脛《はぎ》あたりまで没すると、もうなかなか渓《たに》の方から流れる水の流れ勢《ぜい》が分明にこたえる。空気も大層冷たくなって、夜雨《やう》の威がひしひしと身に浸みる。足は恐ろしく冷い。足の裏は痛い。胴ぶるいが出て来て止まらない。何か知らん痛いものに脚の指を突掛《つっか》けて、危く大噐氏は顛倒しそうになって若僧に捉《つか》まると、その途端に提灯はガクリと揺《ゆら》めき動いて、蓑の毛に流れている雨の滴《しずく》の光りをキラリと照らし出したかと思うと、雨が入ったか滴がかかったかであろう、チュッといって消えてしまった。風の音、雨の音、川鳴の音、樹木の音、ただもう天地はザーッと、黒漆《こくしつ》のように黒い闇の中に音を立てているばかりだ。晩成先生は泣きたくなった。
ようございます、今更帰れもせず、提灯を点火《つけ》ることも出来ませんから、どうせ差しているのではないその蝙蝠傘《こうもり》をお出しなさい。そうそう。わたくしがこちらを持つ、貴方《あなた》はそちらを握って、決して離してはいけませんよ。闇でもわたしは行けるから、恐れることはありません。
ト蔵海先生|実《じつ》に頼もしい。平常は一[#(ト)]通りの意地がなくもない晩成先生も、ここに至って他力宗《たりきしゅう》になってしまって、ただもう世界に力とするものは蝙蝠傘《こうもり》一本、その蝙蝠傘《こうもり》のこっちは自分が握っているが、むこうは真の親切者が握っているのだか狐狸《こり》が握
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