一切の音声《おんじょう》も、それから馬が鳴き牛が吼《ほ》え、車ががたつき、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車が轟き、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船が浪を蹴開《けひら》く一切の音声も、板の間へ一本の針が落ちた幽《かす》かな音も、皆残らず一緒になってあのザアッという音の中に入っているのだナ、というような気がしたりして、そして静かに諦聴《たいちょう》すると分明《ぶんみょう》にその一ツのザアッという音にいろいろのそれらの音が確実に存していることを認めて、アアそうだったかナ、なんぞと思う中《うち》に、何時《いつ》か知らずザアッという音も聞えなくなり、聞く者も性《しょう》が抜けて、そして眠《ねむり》に落ちた。
俄然《がぜん》として睡眠は破られた。晩成先生は眼を開くと世界は紅《あか》い光や黄色い光に充たされていると思ったが、それは自分の薄暗いと思っていたのに相異して、室《へや》の中が洋燈《ランプ》も明るくされていれば、またその外《ほか》に提灯《ちょうちん》などもわが枕辺《まくらべ》に照されていて、眠《ねむり》に就いた時と大《おおい》に異なっていたのが寝惚眼《ねぼけまなこ》に映ったからの感じであった事が解った。が、見れば和尚も若僧もわが枕辺にいる。何事が起ったのか、その意味は分らなかった。けげんな心持がするので、頓《とみ》には言葉も出ずに起直《おきなお》ったまま二人を見ると、若僧が先ず口をきった。
御やすみになっているところを御起しして済みませんが、夜前《やぜん》からの雨があの通り甚《ひど》くなりまして、渓《たに》が俄《にわか》に膨《ふく》れてまいりました。御承知でしょうが奥山の出水《でみず》は馬鹿に疾《はや》いものでして、もう境内にさえ水が見え出して参りました。勿論《もちろん》水が出たとて大事にはなりますまいが、此地《ここ》の渓川の奥入《おくいり》は恐ろしい広い緩傾斜《かんけいしゃ》の高原なのです。むかしはそれが密林だったので何事も少かったのですが、十余年|前《ぜん》に悉《ことごと》く伐採したため禿《は》げた大野《おおの》になってしまって、一[#(ト)]夕立《ゆうだち》しても相当に渓川が怒《いか》るのでして、既に当寺の仏殿は最初の洪水の時、流下《りゅうか》して来た巨材の衝突によって一角《いっかく》が壊《やぶ》れたため遂に破壊してしまったのです。
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