》ったと見えて、大きな切株の跡の上を、今降りつつある雨がおとずれて其処《そこ》にそういうもののあることを見せていた。右手に鐘楼《しょうろう》があって、小高い基礎《いしずえ》の周囲には風が吹寄せた木の葉が黄色くまたは赭《あか》く湿《ぬ》れ色《いろ》を見せており、中ぐらいな大《おおき》さの鐘が、漸《ようや》く逼《せま》る暮色の中に、裾は緑青《ろくしょう》の吹いた明るさと、竜頭《りゅうず》の方は薄暗さの中に入っている一種の物※[#二の字点、1−2−22]《ものもの》しさを示して寂寞《じゃくまく》と懸《かか》っていた。これだけの寺だから屋《や》の棟《むね》の高い本堂が見えそうなものだが、それは回禄《かいろく》したのかどうか知らぬが眼に入らなくて、小高い処に庫裡様《くりよう》の建物があった。それを目ざして進むと、丁度《ちょうど》本堂仏殿のありそうな位置のところに礎石《そせき》が幾箇《いくつ》ともなく見えて、親切な雨が降る度《たび》に訪問するのであろう今もその訪問に接して感謝の嬉《うれ》し涙を溢《あふ》らせているように、柱の根入《ねい》りの竅《あな》に水を湛《たた》えているのが能《よ》く見えた。境内の変にからりとしている訳もこれで合点《がてん》が行って、あるべきものが亡《う》せているのだなと思いながら、庫裡へと入った。正面はぴったりと大きな雨戸が鎖《とざ》されていたから、台所口のような処が明いていたまま入ると、馬鹿にだだ濶い土間で、土間の向う隅には大きな土竈《へっつい》が見え、つい入口近くには土だらけの腐ったような草履《ぞうり》が二足ばかり、古い下駄《げた》が二、三足、特《こと》に歯の抜けた下駄の一ツがひっくり返って腹を出して死んだようにころがっていたのが、晩成先生のわびしい思《おもい》を誘った。
頼む、
と余り大きくはない声でいったのだが、がらんとした広土間《ひろどま》に響いた。しかしそのために塵一ツ動きもせず、何の音もなく静《しずか》であった。外にはサアッと雨が降っている。
頼む、
と再び呼んだ。声は響いた。答はない。サアッと雨が降っている。
頼む、
と三たび呼んだ。声は呼んだその人の耳へ反《かえ》って響いた。しかし答は何処《どこ》からも起らなかった。外はただサアッと雨が降っている。
頼む。
また呼んだ。例の如くややしばし音沙汰《おとさた》がなかった。少し焦《じ》
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