りの士とは云え、戦乱の世に於て之を説くことが出来たと云えば修養の程も思う可き立派な文武の達人だ。此の一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置を談論していた。夜は次第に更けたが、談論は尽きぬ。もとより機密の談《はなし》だから雑輩は席に居らぬ。燭《しょく》を剪《き》り扇を揮《ふる》って論ずる物静かに奥深き室の夜は愈々更けて沈々となった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の坐を稍々《やや》遠く離れて蒲生の小伜が端然と坐っていた。坐睡《いねむり》をせぬまでも、十三歳やそこらの小童《こわっぱ》だから、眼の皮をたるませて退屈しきって居るべき筈だのに、耳を傾け魂を入れて聞いて居た様子は、少くとも信長や自分の談論が解って、そして其上に興味を有《も》っているのだ。流石《さすが》に武勇のみでない一鉄だから人を鑑識する道も知っている。ヤ、こりゃ偉い物だぞ、今の年歯で斯様では、と感歎《かんたん》して、畏《おそ》るべし、畏るべし、此児の行末は百万にも将たるに至ろう、と云ったという。随分|怜悧《りこう》な芸妓《げいしゃ》でも、可《い》い加減に年を取った髯面《ひげづら》野郎でも、相手にせずに其処へ坐らせて置いて少し上品な談話でも仕て居ると、大抵の者は自分は自分だけの胸の中で下らぬ事を考えて居るか坐睡《いねむ》り[#ルビの「いねむ」は底本では「いねむり」]したりするものである。鶴千代丸の此事のあったのは、ただ者で無いことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことは無い。おまけに信長は人を試みるのが嫌いでは無い男で、森蘭丸の正直か不正直かを試みた位であるから、何ぞに附けて鶴千代丸を確《しか》と見定めるところがあって、そして吾《わ》が婿にと惚《ほ》れ込んだのであろう。
鶴千代丸は信長一鉄の鑑識に負《そむ》かなかった。十四歳の八月の事である。信長が伊勢の国司の北畠と戦った時、鶴千代丸は初陣をした。蒲生家の覚えの勇士の結解《けっかい》十郎兵衛、種村伝左衛門という二人にも先んじて好い敵の首を取ったので、鶴千代丸に付置かれた二人は面目無いやら嬉しいやらで舌を巻いた。信長も大感悦で手ずから打鮑《うちあわび》を取って賜わったが、そこで愈々《いよいよ》其歳の冬十二になる女子を与えて岐阜で式を行い、其女子に乳人《めのと》加藤次兵衛を添えて、十四と十二の夫婦を日野の城へと遣った。もはや人質では無く、京畿に威を振った信長の縁者、小さくは有るが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。
これよりして忠三郎は信長に従って各処の征戦に従事して功を立てて居り、信長が光秀に弑《しい》された時は、光秀から近江《おうみ》半国の利を啗《くら》わせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引受けて城に拠《よ》って戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下に就いて段々と武功を積んだが、特《こと》に九州攻めには、堀秀政の攻めあぐんだ巌石《がんじゃく》の城に熊井越中守を攻め伏せて勇名を轟《とどろ》かした。今ここに氏郷の功績を注記したい意も無いから省略するが、かくて十余年の間に次第に大身になり、羽柴の姓を賜わって飛騨守《ひだのかみ》氏郷といえば味方は頼もしく思い、敵は恐ろしく思う一方の雄将となって終《しま》った。秀賦の名は秀吉と相犯すを忌んで、改めて氏郷としたのであって、先祖田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年、秀吉が聚楽《じゅらく》の第《だい》を造った其年、氏郷は伊勢の四五百森《よいおのもり》へ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島の松の字を目出度しとして用いたのである。当時正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。
小田原陣の時、無論氏郷は兵を率いて出陣して居て、割合に他の大名よりは戦に遇って居り、戦功をあらわして居る。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津と附いて来たのであるが、今しも秀吉の鑑識を以て会津の城主、奥州出羽の押えということに定められたのである。
氏郷は法を執ること厳峻《げんしゅん》な人で、極端に自分の命令の徹底的ならんことを然る可き事とした人である。勿論乱れ立った世に在っては、一軍の主将として下知《げぢ》の通りに物事の捗《はこ》ぶのを期するのは至当の訳で、然《さ》無《な》くても軍隊の中に於ては下々の心任せなどが有ってはならぬものであるが、それでも自らに寛厳の異があり程度がある。郭子儀《かくしぎ》、李光弼《りこうひつ》はいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまは大《おおい》に違っていたことが伝えられている。氏郷は恐ろしく厳しい方で、小田原北条攻の為に松坂を立った二月七日の事だ、一人の侍に蒲生重代の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》を持たせて置いたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見廻ったとき、此処に居よというところに其侍が居なかった。そこで氏郷が、屹度《きっと》此処に居よ、と注意を与えて置いて、それから組々を見廻り終えて還《かえ》った、よくよく取締めた所存の無かった侍と見えて、復《また》もや此処に居よと云付けたところに居なかった。すると氏郷は物も言わずに馬の上で太刀《たち》を抜くが否や、そっ首|丁《ちょう》と打落して、兜を別の男に持たせたので、士卒等これを見て舌を振って驚き、一軍粛然としたということである。巌石の城を攻落した時に、上坂左文、横山喜内、本多三弥の三人が軍奉行《いくさぶぎょう》でありながら令を犯して進んで戦ったので厳しく之を咎《とが》めたところ、上坂横山の二人は自分の高名《こうみょう》の為ではなく、火を城に放とうと思うたのであると苦しい答弁をしたので免《ゆる》されたが、本多は云分立たずであったので勘当されて終《しま》った。三弥は徳川家の譜代侍の本多佐渡正信の弟で、隠れ無い勇士であったが其の如くで、其他旗本から抜け出でて進み戦った岡左内、西村|左馬允《さまのすけ》、岡田大介、岡半七等、いずれも崛強《くっきょう》の者共で、其戦に功が有ったのだったが、皆令を犯した廉《かど》で暇《いとま》を出されて浪人するの已《や》むを得ざるに至った。
氏郷は是《かく》の如く厳しい男だったが、他の一面には又人を遇するにズバリとした気持の好いところも有った人だった。必らずしも重箱の中へ羊羹《ようかん》をギチリと詰めるような、形式好き融通利かずの偏屈者では無かった。前に挙げた関白其他に敵対行為を取って世の余され者になった強者共《つわものども》を召抱えた如きは其著しい例で、別に斯様《こう》いう妙味のある談《はなし》さえ伝わっている。それは氏郷が関白に従って征戦を上方《かみがた》やなんぞで励んで居た頃、即ち小田原陣前の事であろうが、或時松倉権助という士が蒲生家に仕官を望んだ。権助は筒井順慶に仕えて居たが何様《どう》いう訳であったか臆病者と云われた。そこで筒井家を去ったのであるが、蒲生家へ扶持《ふち》を望むに就いて斯様いうことを云った。拙者は臆病者と云われた者でござる、但し臆病者も良将の下に用いらるる道がござらば御扶持を蒙《こうむ》りとうござる、と云ったのである。筒井家は順慶流だの洞《ほら》ヶ|峠《とうげ》だのという言葉を今に遺している位で、余り武辺の芳《かん》ばしい家ではない。其家で臆病者と云われたのは虚実は兎に角に、是も芳ばしいことでは無い。ところが氏郷は其男を呼出して対面した上、召抱えた。自分から臆病者と名乗って出た正直なところを買ったのだろう、正直者には勇士が多い。臆病者が知遇に感じて強くなったか、多分は以前から臆病者なぞでは無かったのだろう、権助は合戦ある毎に好い働きをする。で氏郷は忽《たちま》ち物頭《ものがしら》にして二千石を与えたというのである。後に此男が打死したところ氏郷が自ら責めて、おれが悪かった、も少しユックリ取立てて遣ったらば強いて打死もせずに段々武功を積んだろうに、と云ったということだ。此話を咬《か》みしめて見ると松倉権助もおもしろければ氏郷も面白い。
氏郷は法令|厳峻《げんしゅん》である代りには自ら処することも一毫《いちごう》の緩怠も無い、徹底して武人の面目を保ち、徹底して武人の精神を揮《ふる》っている。所謂《いわゆる》「たぎり切った人」である、ナマヌルな奴では無い。蒲生家に仕官を望んで新規に召抱えられる侍があると、氏郷は斯様云って教えたということである。当家の奉公はさして面倒な事は無い、ただ戦場という時に、銀の鯰の兜を被《かぶ》って油断なく働く武士があるが、其武士に愧《は》じぬように心掛けて働きさえすればそれでよい、と云ったという。勿論これは未だ小身であった時の事で有ろうが、訓諭も糸瓜《へちま》も入ったものではない、人を使うのはこれで無ければ嘘だ。碌《ろく》な店も工場も持って居ぬ奴が小やかましい説教沙汰ばかりを店員や職工に下して、おのれは坐蒲団《ざぶとん》の上で煙草をふかしながら好い事を仕たがる如き蝨《しらみ》ッたかりとは丸で段が違う。言うまでも無く銀の鯰の兜を被って働く者は氏郷なのである。斯様いう人だったから四位の少将、十八万石の大名となってからも、小田原陣の時は驚くべき危険に身を暴露して手厳しい戦をして居る。それは氏郷の方から好んで為出したことではないが、他の大将ならば或は遁逃《とんとう》的態度に出て、そして敵をして其企図を多少なりとも成就するの利を得、味方をして損害を被《こうむ》るの勢を成さしめたであろうに、氏郷が勇敢に職責を厳守したので、敵は何の功をも立てることが出来なかった。これは五月三日の夜の事で、城中に居縮《いすく》んでばかり居ては軍気は日々に衰えるばかりなゆえに、北条方にさる者有りと聞えた北条氏房が広沢重信をして夜討を掛けさせた時と、七月二日に氏房が復《また》春日|左衛門尉《さえもんのじょう》をして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なので中々猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によって勿論|逐払《おいはら》った。然し其時の闘は如何にも突嗟《とっさ》に急激に敵が斫入《きりい》ったので、氏郷自身まで鎗《やり》を取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、鎧《よろい》の胸板《むないた》掛算《けさん》に太刀疵《たちきず》鎗疵《やりきず》が四ヶ処、例の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》に矢の痕《あと》が二ツ、鎗の柄には刀痕《とうこん》が五ヶ処あったという。以て氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も退《ひ》かぬ剛勇の人であることが窺《うかが》い知られる。つまり氏郷は他を律することも厳峻《げんしゅん》な代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。
是《かく》の如き人は主人としては畏《おそ》ろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としては所謂《いわゆる》手強《てごわ》い敵、味方としては堅城鉄壁のようなものである。然し是の如きの人には、ややもすれば我執の強い、古い言葉で云えば「カタムクロ」の人が多いものだが、流石《さすが》に氏郷は器量が小さくない、サラリとした爽朗《そうろう》快活なところもあった人だ。嘗《かつ》て九州陣巌石の城攻の時に軍令に背いて勘当された臣下の者共が、氏郷と交情の好かった細川越中守忠興を頼んで詫言《わびごと》をして貰って、復《また》新《あらた》に召抱えられることになった。其中に西村左馬允という者があって、大の男の大力の上に相撲は特更《ことさら》上手の者であった。其男が勘当を赦《ゆる》されて新に召還《めしかえ》されたばかりの次の日出仕すると、左馬允、汝は大力相撲上手よナ、さあ一番来い、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲を挑《いど》んだ。氏郷ももとより非力の相撲弱では無かったのであろう。左馬允は弱った。勘気を赦されて帰り新参になったばかりなので、主人を叩きつけて主人が好い心持のする筈は無いから、当惑するのに無理は無い。然し主命である、挑まれて相手にならぬ訳には行かぬから、心得ましたと引組んで捻合《ねじあ》った。勝てば怒られる、わざと負けるのは軽薄でもあり心外でもある、と
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