かかる事も有り得べきではある。毒がいは毒飼で、毒害は却《かえ》ってアテ字である、其毒飼という言葉が時代の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》いを表現している通り、此時代には毒飼は頻々として行われた。けれども毒飼は最もケチビンタな、蝨《しらみ》ッたかりの、クスブリ魂の、きたない奸人《かんじん》小人|妬婦《とふ》悪婦の為すことで、人間の考え出したことの中で最も醜悪卑劣の事である。自死に毒を用いるのは耻辱《ちじょく》を受けざる為で、クレオパトラの場合などはまだしも恕《じょ》すべきだが、自分の利益の為に他を犠牲にして毒を飼う如きは何という卑しいことだろう。それでも当時は随分行われたことであるから、これに対する用心も随《したが》って存したことで、治世になっても身分のある武士が印籠《いんろう》の根付にウニコールを用いたり、緒締《おじめ》に珊瑚珠《さんごじゅ》を用いた如きも、珊瑚は毒に触るれば割れて警告を与え、ウニコールは解毒の神効が有るとされた信仰に本づく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒催吐の効あるものとして、其頃用いられたものと見える。扨《さて》此の毒飼の事が実に存したこととすれば、氏郷は宜いが政宗は甚《いた》く器量が下がる。但し果して事実であったか何様《どう》かは疑わしい。政宗にも氏郷にもゆかりは無いが、政宗の為に虚談想像談で有って欲しい。政宗こそ却《かえ》って今歳《ことし》天正の十八年四月の六日に米沢城に於て危うく毒を飼わりょうとしたのである。それは政宗が私に会津を取り且つ小田原参向遅怠の為に罪を得んとするの事情が明らかであったところから、最上《もがみ》義光に誑《たぶら》かされた政宗の目上が、政宗を亡くして政宗の弟の季氏《すえうじ》を立てたら伊達家が安泰で有ろうという訳で毒飼の手段を廻らした。幸にそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒に中《あた》って苦悶《くもん》即死したから事|露《あら》われて、政宗は無事であったが、其為に政宗は手ずから小次郎季氏を斬《き》り、小次郎の傅《もり》の小原縫殿助《おばらぬいのすけ》を誅《ちゅう》し、同じく誅されそこなった傅の粟野藤八郎は逃げ、目上の人即ち政宗の母は其実家たる最上義光の山形へ出奔《いではし》ったという事がある。小次郎を斬ったのは鈴木七右衛門だったとも云う。これも全部は信じかねるが、何にせよ毒飼騒ぎのあったことは有ったらしく、又世俗の所謂《いわゆる》鬼役即ち毒味役なる者が各家に存在した程に毒飼の事は繁かったものである。されば政宗が氏郷に毒を飼ったことは無かったとしても、蒲生方では毒を飼ったと思っても強《あなが》ち無理では無く、氏郷が西大寺を服したとても過慮でも無い。又ずっと後の寛永初年(五年|歟《か》)三月十二日、徳川二代将軍秀忠が政宗の藩邸に臨んだ時、政宗が自ら饗膳《きょうぜん》を呈した。其時将軍の扈従《こじゅう》の臣の内藤|外記《げき》が支え立てして、御主人《おんあるじ》役に一応御試み候え、と云った。すると政宗は大《おおい》に怒って、それがし既にかく老いて、今さら何で天下を心掛きょうず、天下に心を掛けしは二十余年もの昔、其時にだに人に毒を飼う如ききたなき所存は有《も》たず、と云い放った。それで秀忠が笑って外記の為に挨拶が有って其儘《そのまま》に済んだ、という事がある。政宗の答は胸が透《す》くように立派で、外記は甚だ不面目であったが、外記だとて一手《ひとて》さきが見えるほどの男ならば政宗が此の位の返辞をするのは分らぬでもあるまいに、何で斯様《かよう》なことを云ったろう。それは全く将軍を思う余りの過慮から出たに相違無いが、見す見す振飛ばされると分ってながら一[#(ト)]押し押して見たところに、外記は外記だけの所存が有ったのであろう。政宗と家康と馬の合ったように氏郷と仲の好かった前田利家は、温厚にして長者の風のあった人で、敵の少い人ではあったが、それでも最上の伊白という鍼医《はりい》の為に健康を危うくされて、老臣の村井|豊後《ぶんご》の警告により心づいて之を遠ざけた、という談《はなし》がある。毒によらず鍼によらず、陰密に人を除こうとするが如きことは有り内の世で、最も名高いのは加藤清正|毒饅頭《どくまんじゅう》一件だが、それ等の談は皆虚誕であるとしても、各自が他を疑い且つ自ら警《いまし》め備えたことは普《あまね》く存した事実であった。政宗が毒を使ったという事は無くても、氏郷が西大寺を飲んだという事は存在した事実と看て差支あるまい。
其日氏郷は本街道、政宗は街道右手を、並んで進んだ。はや此辺は叛乱地《はんらんち》で、地理は山あり水あって一寸|錯綜《さくそう》し、処々に大崎氏の諸将等が以前|拠《よ》って居た小城が有るのだった。氏郷軍は民家を焼払って進んだところ、本街道筋にも一揆《いっき》の籠《こも》った敵城があった。それは四竈《しかま》、中新田《なかにいだ》など云うのであった。氏郷の勢に怖れて抵抗せずに城を開いて去ったので、中新田に止《とど》まり、氏郷は城の中に、政宗は城より七八町|距《へだ》たった大屋敷に陣取ったから、氏郷の先隊四将は本隊を離れて政宗の営の近辺に特に陣取った。無論政宗を監視する押えであった。此の中新田附近は最近、即ち足掛四年前の天正十五年正月に戦場となった処で、其戦は伊達政宗の方の大敗となって、大崎の隣大名たる葛西左京太夫晴信が使を遣わして慰問したのはまだしも、越後の上杉景勝からさえ使者を遣《よこ》して特に慰問されたほど諸方に響き渡り、又反覆常無き大内定綱は一度政宗に降参した阿子島民部を誘って自分に就かせたほど、伊達の威を落したものだった。それは大崎の大崎義隆の臣の里見隆景から事起って、隆景が義隆をして同じ大崎の巨族たる岩出山の城主氏家弾正を殺させんとしたので、弾正が片倉小十郎に因って政宗に援を請うたところから紛糾した大崎家の内訌《ないこう》が、伊達対大崎の戦となり、伊達が勝てば氏家弾正を手蔓《てづる》にして大崎を呑んで終《しま》おうということになったのである。ところが氏家を援《たす》けに出た伊達軍の総大将の小山田筑前は三千余騎を率いて、金の采配《さいはい》を許されて勇み進んだに関らず、岩出山の氏家弾正を援けようとして一本槍に前進して中新田城を攻めたため、大崎から救援の敵将等と戦って居る中に、中新田城よりは後《あと》に当って居る下新田城や師山《もろやま》城や桑折《くわおり》城やの敵城に策応されて、袋の鼠《ねずみ》の如くに環攻され、総大将たる小山田筑前は悪戦して死し、全軍殆んど覆没し、陣代の高森|上野《こうつけ》は婿《むこ》舅《しゅうと》の好《よし》みを以て哀《あわれみ》を敵の桑折(福島附近の桑折《こおり》にあらず、志田郡鳴瀬川附近)の城将黒川月舟に請うて僅に帰るを得た程である。今氏郷は南から来て四竈を過ぎて其の中新田城に陣取ったが、大崎家の余り強くも無い鉾先《ほこさき》ですら、中新田の北に当って同盟者をさえ有した伊達家の兵に大打撃を与え得た地勢である。氏郷の立場は危いところである。政宗の兵が万一敵意をあらわして、氏郷勢の南へ廻って立切った日には、西には小野田の城が有って、それから向うは出羽奥羽の脊梁《せきりょう》山脉に限られ、北には岩出山の城、東北には新田の城、宮沢の城、高清水の城、其奥に弱い味方の木村父子が居るがそれは一揆《いっき》が囲んでいる、東には古川城、東々南には鳴瀬川の股に師山城、松山城、新沼城、下新田城、川南には山に依って桑折城、東の一方を除いては三方皆山であるから、四方策応して取って掛られたが最期、城に拠って固守すれば少しは支え得ようが、動こうとすれば四年前の小山田筑前の覆轍《ふくてつ》を履《ふ》むほかは無い。氏郷が十二分の注意を以て、政宗の陣の傍へ先手《さきて》の四将を置いたのは、仮想敵にせよ、敵の襟元に蜂を止まらせて置いたようなものである。動静監視のみでは無い、若《も》し我に不利なるべく動いたら直に螫《さ》させよう、螫させて彼が騒いだら力足を踏ませぬ間に直に斬立《きりた》てよう、というのである。七八町の距離というのは当時の戦には天秤《てんびん》のカネアイというところである。
小山田筑前が口措くも大失敗を演じた原因は、中新田の城を乗取ろうとして掛ったところ、城将|葛岡監物《くずおかけんもつ》が案外に固く防ぎ堪《こら》えて、そこより一里内外の新田に居た主人義隆に援を請い、義隆が直ちに諸将を遣わしたのに本づくので、中新田の城の外郭《そとぐるわ》までは奪《と》ったが、其間に各処の城々より敵兵が切って出たからである。譬《たと》えば一箇の獣《けもの》と相搏《あいう》って之を獲ようとして居る間に、四方から出て来た獣に脚を咬《か》まれ腹を咬まれ肩を攫《つか》み裂かれ背を攫み裂かれて倒れたようなものである。氏郷は今それと同じ運命に臨まんとしている。何故といえば氏郷は中新田城に拠って居るとは云え、中新田を距《さ》ること幾許《いくばく》も無いところに、名生《めふ》の城というのがあって、一揆が籠っている。小さい城では有るが可なり堅固の城である。氏郷が高清水の方へ進軍して行けば、戦術の定則上、是非其の途中の敵城は落さねばならぬ。其名生の城にして防ぎ堪えれば、氏郷に於ける名生の城は恰《あたか》も小山田筑前に於ける中新田の城と同じわけになるのである。しかも政宗は高清水の城まで敵の城は無いと云ったのであるから、蒲生軍は名生の城というのが有って一揆が籠って居ることを知らぬのである。されば氏郷は明日名生の城に引かかったが最期である、よしんば政宗が氏郷に斬って掛らずとも、傍観の態度を取るだけとしても、一揆《いっき》方の諸城より斬《き》って出たならば、蒲生勢は千手観音《せんじゅかんのん》でも働ききれぬ場合に陥るのである。
明日は愈々《いよいよ》一揆勢との初手合せである。高清水へは田舎道六十里あるというのであるが、早朝に出立して攻掛かろう。若《も》し途中の様子、敵の仕業《しわざ》に因って、高清水に着くのが日暮に及んだなら、明後日は是非攻め破る、という軍令で、十八日の中新田の夜は静かに更けた。無論政宗勢は氏郷勢の前へ立たせられる任務を負わせられていたのである。然るに其朝は前野の茶室で元気好く氏郷に会った政宗が、其夜の、しかも亥《い》の刻、即ち十二時頃になって氏郷陣へ使者をよこした。其の言には、政宗今日夕刻より俄《にわか》に虫気《むしけ》に罷《まか》り在り、何とも迷惑いたし居り候、明日の御働き相延ばされたく、御[#(ン)]先鋒《さき》を仕《つかまつり》候事成り難く候、とあるのであった。金剛の身には金剛の病、巌石も凍融《いてとけ》の春の風には潰《くず》るる習いだから、政宗だとて病気にはなろう。虫気というは当時の語で腹痛苦悩の事である。氏郷及び氏郷の諸将は之を聞いて、ソリャコソ政宗めが陰謀は露顕したぞ、と思って眼の底に冷然たる笑《えみ》を湛《たた》えて点頭《うなず》き合ったに違いあるまい。けれども氏郷の答は鷹揚《おうよう》なものであった。仰《おおせ》の趣は承り候、さりながら敵地に入り、敵を目近に置きながら留まるべくも候わねば、明日は我が人数を先へ通し候べし、御養生候て後より御出候え、と穏やかな挨拶だ。此の返答を聞いて政宗は政宗で、ニッタリと笑ったか何様《どう》だか、それは想像されるばかりで、何の証も無い。ただ若し政宗に陰険な計略が有ったとすれば、思う壺に氏郷を嵌《は》めて先へ遣ることになったのである。
十九日の早朝に氏郷は中新田を立った。伊達勢は主将が病気となってヒッソリと静かにして居る。氏郷は潮合を計って政宗の方《かた》へ使者を出した。それがしは只今打立ち候、油断無くゆるゆる御養生の上、後より御出候え、というのであった。そして氏郷は諸軍へ令した。政宗を後へ置く上は常体の陣組には似る可からず、というのであったろう、五手与《いつてぐみ》、六手与、七手与、此|三与《みくみ》を後備《あとぞなえ》と定め、十番手後備の関勝蔵を三与の後へ入替えた。前にも見えた五手与、六手与などと
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