ひどい奴でござる、と一切の事情を成るべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、其年の暮には上方の富田左近|将監《しょうげん》や施薬院玄以に書を与えて、何様《どん》なものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名は予《か》ねてより通聘《つうへい》して居るのに、貴下が勝手に之を逐《お》い落して会津を取られたことは、殿下に於て甚しく機嫌を損じていらるるところだ、と云って遣《よこ》した。もう此時は秀吉は小田原の北条を屠《ほふ》って、所謂《いわゆる》「天下の見懲らし」にして、そして其勢で奥羽を刃《やいば》に血ぬらず整理して終おうという計画が立って居た時だから、勿論秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、又秀吉の後たるべき三好秀次からも、明年小田原征伐の砌《みぎり》は兵を出して武臣の職責を尽すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることも勿論である。明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院《りょうがくいん》という者を京都へ遣った。三月は斎藤
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