は二本松に達した。それより先に長政は浅野六右衛門を氏郷の許《もと》へ遣った。六右衛門は名生へ行ったから、一切の事情は分明した。長政は政宗を招《よ》ぶ、政宗は出ぬわけには行かぬ、片倉小十郎其外三四人を引連れて、おとなしく出て来て言訳をした。何事も須田伯耆の讒構《ざんこう》ということにした。それならば成実盛重両人を氏郷へ人質に遣りて、氏郷これへ参られて後に其|仔細《しさい》を承わりて、言上《ごんじょう》可申《もうすべし》と突込んだ。政宗は領掌したが、人質には盛重一人しか出さなかった。氏郷は承知しなかった。遂に十二月二十八日成実は人質に出た。此の成実は嘗《かつ》て政宗に代って会津の留守をした程の男で、後に政宗に対して何を思ったか伊達家を出た時、上杉景勝が五万石を以て迎えようとした。然し景勝には随身しないで、復《また》伊達家へ帰ったが、其時は僅に百人|扶持《ぶち》を給されたのみであったのに、斎藤兵部というものが自ら請うて信夫《しのぶ》郡の土兵五千人を率いて成実に属せんことを欲したので、成実は亘理《わたり》郡二万三千八百石を賜わって亘理城に居らしめらるるに至ったという。所謂《いわゆる》埋没さるる
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