のを見ぬものは、一ツは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思って居たせいもあろうが、其の半面には文雅で学問が有って民を撫する道を知っていたろう氏郷の施為《しい》が、木村父子や佐々成政などと違って武威の恐ろしさのみを以て民に臨まなかったため、僅々の日数であったに関らず、今度の領主は何様《どう》いう人で有ろうと怖畏《ふい》憂虞《ゆうぐ》の眼を張って窺《うかが》って居た人民に、安堵《あんど》と随《したが》って親愛の念を懐《いだ》かせた故であったろう。
氏郷の出陣には民百姓ばかりで無い、町野左近将監も聊《いささ》か危ぶんで、願わくは今しばらく土地にも慣れ、四囲の事情も明らかになってから、戦途に上って欲しいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原を経て日橋川を渡り、猪苗代湖を右手《めて》に見て、其湖の北方なる猪苗代城に止《とど》まるのが、急いでも急がいでも行軍上至当の頃合であった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とは特《こと》に親しみ深い者であった。そこで老人の危険を忌む思慮も加わってであろうが、氏郷を吾《わ》が館《やかた》に入れまいらせてから、密《ひそか》に諫言《かんげん》を上《たてまつ》って、今此の寒天に此処より遥に北の奥なるあたりに発向したまうとも、人馬も労《つか》れて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、御勝利を得たまうにしても中々容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春を以て御出なされては如何でござる、と頻《しき》りに止めたのである。町野繁仍の言も道理では有るが、それはもう魂の火炎が衰えている年寄武者の意見である。氏郷此時は三十五歳で有ったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、其夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということに就ては賢いものであるから、大抵の場合に於て老人には従い、老馬には騎《の》るのが危険は少い。けれども其は無事の日の事である。戦機の駈引には安全第一は寧《むし》ろ避く可きであり、時少く路長き折は老馬は取るべからずである。今起った一揆《いっき》は少しでも早く対治して終《しま》って其の根を張り枝を茂らせぬ間に芟除《かりのぞ》き抜棄てるのを機宜《きぎ》の処置とする。且又信雄が明智乱の時のような態度を取って居た日には、武道も立たぬし、秀吉の眼も瞋《いか》ろうし、木村父子を子とも旗下とも思えと、秀吉に前以て打って置かれた釘がヒシヒシと吾《わが》胸に立つ訳である。で、氏郷は町野に対して、汝の諫言を破るでは無いが、何様《どう》も然様《そう》は成りかねる、仮令《たとい》運|拙《つたな》く時利あらずして吾が上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親とも仰げと殿下の云われた木村父子を見継がぬならば、我が武道は此後全く廃《すた》る、と云切った。町野も合点の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮べて、御尤《ごもっとも》の御仰と承わりました、然らば某《それがし》も一期《いちご》の御奉公、いさぎよく御[#(ン)]先を駈け申そう、と皺腕《しわうで》をとりしぼって部署に就く事に決した。斯様《こう》いう思慮を抱き、斯様いう決着を敢てしたのは必ず町野のみでは無かったろう、一族譜代の武士達には、よくよく沸《たぎ》り切った魂の持主と、分別の遠く届く者を除いては、随分数多いことで有ったろうし、そして皆氏郷の立場を諒解するに及んで、奮然として各自の武士魂に紫色や白色の火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《かえん》を燃やし立てたことであろう。それで無くては四方八方難儀の多い上に、横ッ腹に伊達政宗という「くせ者」が凄い眼をギロツカせて刀の柄《つか》に手を掛けて居る恐ろしい境界《きょうがい》に、毅然《きぜん》たる立派な態度を何様して保ち得られたろう! であるから氏郷の佐沼の後詰は辺土の小戦のようであるが、他の多くの有りふれた戦には優《まさ》った遣りにくい戦で、そして味わって見ると中々|濃《こま》やかな味のある戦であり、鎗《やり》、刀、血みどろ、大童《おおわらわ》という大味な戦では無いのである。
ここに不明の一怪物がある。それは云う迄もなく、殊勝な念仏行者の満海という者の生れ代りだと言われている伊達の藤次郎政宗である。生れ代りの説は和漢共に随分俗間に行われたもので、恐れ多いことだが何某《なにがし》天皇は或修行者の生れ代りにわたらせられて、其前世の髑髏《どくろ》に生いたる柳が風に揺られる度毎に頭痛を悩ませたもうたなどとさえ出鱈目《でたらめ》を申して居たこともある。武田信玄が曾我五郎の生り代りなどとは余り作意が奇抜で寧《むし》ろ滑稽《こっけい》だが、宋の蘇東坡《そとうば》は戒禅師の
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