他領を通過しようという時などは、恩も仇《あだ》もある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗《ひょうとう》的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、特《こと》に足利《あしかが》氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を瀝尽《れきじん》させられている。ひとり明智光秀が小栗栖《おぐるす》長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又|手苛《てひど》い領主や敵将に出遇《であ》った日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられて終《しま》う。で、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈も糸瓜《へちま》も有ったものでは無かった。債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直《こうのもろなお》に取っては臣下の妻妾《さいしょう》は皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。何処の領主でも兵卒を多く得たいものは然様《そう》いうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。滅茶苦茶《めちゃくちゃ》なことの好きなものには実に好い世であった。
 斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐《だいご》の醍の字を忘れて、まごまごして居た佑筆《ゆうひつ》に、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、譬《たと》えば乱れ垢《あか》づいた髪を歯の疎《あら》い丈夫な櫛《くし》でゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くっても関《かま》うものかという調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一[#(ト)]かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒な奴、一[#(ト)]かたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の大旆《たいはい》の下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだ一[#(ト)]かたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯に順《したが》って解けなければ引ッコ抜かれるか※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]断《ひっちぎ》られるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家を承《う》けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠を踰《こ》えて大森に向い、相馬|弾正大弼《だんじょうたいひつ》と畠山|右京亮義継《うきょうのすけしつぐ》、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒《せんぽう》になろうと父に請うた位に気嵩《きがさ》で猛《さか》しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読《たんどく》したり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが何様《どう》であろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻して逐《お》いつ返しつして、次第次第に斬勝《きりか》って、既に西は越後境、東は三春、北は出羽に跨《またが》り、南は白川を越して、下野《しもつけ》の那須、上野《こうつけ》の館林までも威※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《いえん》は達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居る。特《こと》に去年蘆名義広との大合戦に、流石《さすが》の義広を斬靡《きりなび》けて常陸《ひたち》に逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津《あいづ》を乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから愈々《いよいよ》南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた
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