うとしつつ、「月明らかに星|稀《まれ》にして、烏鵲《うじゃく》南《みんなみ》に飛ぶ」と槊《さく》を馬上に横たえて詩を賦したのも丁度斯様いう夜であった。江州日野五千石ばかりから取上って、今は日本|無双《ぶそう》の大国たる出羽奥州、藤原の秀衡や清原武衡の故地に踏みしかって、四十二万石の大禄を領するに至った氏郷がただ凝然と黙々として居る。侍座して居たのは山崎家勝というものだった。如何に深沈な人とは云え、かかる芽出度き折に当って何か考えに沈んで居る主人の様子を、訝《いぶか》しく思って窃《ひそか》に注意した。すると是は又何事であろう、やがて氏郷の眼からはハラハラと涙がこぼれた。家勝は直ちに看て取って怪《あやし》んだ。が、忽《たちま》ちにして思った、是は感喜の涙であろうと。蟹《かに》は甲《こうら》に似せて穴を掘る。仕方の無いもので、九尺梯子《くしゃくばしご》は九尺しか届かぬ、自分の料簡《りょうけん》が其辺だから家勝には其辺だけしか考えられなかった。然しそれにしては何様《どう》も様子が腑に落ち兼ねたから、恐る恐る進んで、恐れながら我が君には御落涙遊ばされたと見受け奉ってござるが、殿下の取分けての御懇命、会津四十二万石の大禄を被《かず》けられたまいし御感《ぎょかん》の御涙にばし御座《おわ》すか、と聞いて見た。自分が氏郷であれば無論嬉し涙をこぼしたことであろうからである。すると氏郷は一寸嘆息して、ア、其様なことに思われたか、我|羞《はず》かしい、と云ったが、一段と声を落して殆んど独語のように、然様《そう》では無い山崎、我たとい微禄小身なりとも都近くにあらば、何ぞの折には如何ようなる働きをも為し得て、旗を天下に吹靡《ふきなび》かすことも成ろうに、大禄を今受けたりとは申せ、山川遥に隔たりて、王城を霞の日に出でても秋の風に袂《たもと》を吹かるる、白川の関の奥なる奥州出羽の辺鄙《ひな》に在りては、日頃の本望も遂げむことは難く、我が鎗《やり》も太刀も草叢《くさむら》に埋もるるばかり、それが無念さの不覚《そぞろ》の涙じゃ哩《わ》、今日より後は奥羽の押え、贈太政大臣信長の婿たる此の忠三郎がよし無き田舎武士《いなかざむらい》の我武者《がむしゃ》共をも、事と品によりては相手にせねばならぬ、おもしろからぬ運命《はめ》に立至ったが忌々《いまいま》しい、と胸中の欝《うつ》をしめやかに洩《も》らした。無論家勝もこれを聞いて解った。成程我が主人は信長公の婿だ、今|遽《にわか》に関白に楯突《たてつ》こうようはあるまいが、云わば秀吉は家来筋だ、秀吉に何事か有らば吾《わ》が主人が手を天下に掛けようとしたとて不思議は無い、男たる者の当り前だ、と悟るに付けて斯様な草深い田舎に身柄と云い器量と云い天晴《あっぱれ》立派な主人が埋められかかったのを思うと、凄然《せいぜん》惻然《そくぜん》として家勝も悲壮の感に打たれない訳には行かなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、粛として秋の気は坐前坐後に満ちたが、月は何知らず冷やかに照って居た。
 氏郷が会津四十二万石を受けて悦《よろこ》ばずに落涙したというのは何という味のある話だろう。鼻糞《はなくそ》ほどのボーナスを貰ってカフェーへ駈込んだり、高等官になったとて嚊殿《かかあどの》に誇るような極楽蜻蛉《ごくらくとんぼ》、菜畠蝶々《なばたけちょうちょう》に比べては、罪が深い、無邪気で無いには違い無いが、氏郷の感慨の涙も流石《さすが》に氏郷の涙だと云いたい。それだけに生れついて居るものは生れついているだけの情懐が有る。韓信が絳灌樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《こうかんはんかい》の輩と伍《ご》を為すを羞《は》じたのは韓信に取っては何様することも出来ないことなのだ。樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]だって立派な将軍だが、「生きて乃《すなは》ち※[#「口+會」、第3水準1−15−25]等と伍を為す」と仕方が無しの苦笑をした韓信の笑には涙が催される。氏郷の書院柱に靠《よ》りかかって月に泣いた此の涙には片頬《かたほ》の笑《えみ》が催されるではないか。流石に好い男ぶりだ。蜻蛉蝶々やきりぎりすの手合の、免職されたア、失恋したアなどという眼から出る酸ッぱい青臭い涙じゃ無い。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石も有り、女房は信長の女《むすめ》で好い器量で、氏郷死後に秀吉に挑まれたが位牌《いはい》に操を立てて尼になって終《しま》った程、忠三郎さんを大事にして居たのだった。
 天下の見懲らしに北条を遣りつけてから、其の勢の刷毛《はけ》ついでに武威を奥州に示して一[#(ト)]撫でに撫でた上に氏郷という強い者を押えにして、秀吉は京へ帰った。奥州出羽は裏面ではモヤモヤムクムクして居ても先ず治まった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。折角|啣《くわ》えた大
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