関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心|長閑《のどか》に大兵で取巻いて、城中の兵気の弛緩《しかん》して其変の起るのを待っている。何の事は無い勝利に定まっている碁だから煙草をふかして笑っているという有様だ。茶の湯の先生の千利休《せんのりきゅう》などを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉も流石《さすが》に直《すぐ》には対面をゆるさなかった。箱根の底倉に居て、追って何分の沙汰を待て、という命令だ。今更政宗は仕方が無い、底倉の温泉の烟《けむり》のもやもやした中に欝陶《うっとう》しい身を埋めて居るよりほか無かった。日は少し立った。直に引見されぬのは勿論上首尾で無い証拠だ。従って来た者の中で譜代で無い者は主人に見限りを付け出した。情無いものだ、蚤《のみ》や蝨《しらみ》は自分がたかって居た其人の寿命が怪しくなると逃げ出すのを常とする。蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏すれば新らしい女は逃腰になると聞いたが、政宗に従っていた新らしい武士は逃げて退いた。其中でも矢田野伊豆《やだのいず》などいう奴は逃出して故郷の大里城に拠《よ》って伊達家に対して反旗を翻えした位だ。そこで政宗の従士は百騎あったものが三十人ばかりになって終った。
 ところへ潮加減を量って法印玄以、施薬院全宗、宮部善祥坊、福原直高、浅野長政諸人が関白の命を含んで糾問《きゅうもん》に遣って来た。浅野弥兵衛が頭分で、いずれも口利であり、外交駈引接衝応対の小手《こて》の利いた者共である。然し弥兵衛等も政宗に会って見て驚いたろう、先ず第一に年は僅に二十四五だ、短い髪を水引即ち水捻《みずより》にした紙線《こより》で巻き立て、むずかしい眼を一[#(ト)]筋縄でも二[#(タ)]筋縄でも縛りきれぬ面魂《つらだましい》に光らせて居たのだから、異相という言葉で昔から形容しているが、全く異相に見えたに相違無い。弥兵衛等もただ者で無いとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負って居るのであるから、先ず第一に朝命を軽《かろ》んじて早く北条攻に出陣しなかったこと、それから蘆名義広を逐払《おいはら》って私に会津を奪ったこと、二本松を攻略し、須賀川を屠《ほふ》り、勝手に四隣を蚕食した廉々《かどかど》を詰問した。勿論これは裏面に於て政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成に此等の事情を宜いように告げて、そして大有力者の手を仮りて政宗を取押えようと謀った為であると云われている。政宗が陳弁は此等諸方面との取合いの起った事情を明白に述べて、武門の意気地、弓箭の手前、已《や》むに已まれず干戈《かんか》を執ったことを云立てて屈しなかった。又朝命を軽んじたという点は、四隣皆敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言開きをした。翌日|復《また》弥兵衛等は来って種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙道諸城、即ち政宗が攻略蚕食した地を納め奉るが宜かろう、と好意的に諭したのである。そこで政宗は仕方が無い、もとより我慾によって国郡を奪ったのではござらぬ、という潔い言葉に吾《わ》が身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差上げることにした。
 埒《らち》は明いた。秀吉は政宗を笠懸山《かさがけやま》の芝の上に於て引見した。秀吉は政宗に侵掠《しんりゃく》の地を上納することを命じ、米沢三十万石を旧《もと》の如く与うることにし、それで不服なら国へ帰って何とでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった。歯のあらい、通りのよい、手丈夫な立派な好い大きな櫛《くし》だ。天下の整理は是《かく》の如くにして捗取《はかど》るのだ。惺々《せいせい》は惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套《じょうとう》文句だが、秀吉も一瞥《いちべつ》の中の政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。政宗も秀吉を、いやなところも無いでは無いが素晴らしい男だ、と思ったに疑無い。人を識《し》るは一面に在り、酒を品するは只三杯だ。打たずんば交りをなさずと云って、瞋拳《しんけん》毒手の殴り合までやってから真の朋友《ほうゆう》になるのもあるが、一見して交《まじわり》を結んで肝胆相照らすのもある。政宗と秀吉とは何様《どう》だったろう。双方共に立派な男だ、ケチビンタな神経衰弱野郎、蜆貝《しじみがい》のような小さな腹で、少し大きい者に出会うと些《ちっと》も容れることの出来ないソンナ手合では無い。嬶《かかあ》や餓鬼を愛することが出来るに至って人間並の男で、好漢を愛し得るに至ってはじめて是れ好漢、仇敵《きゅうてき》を愛し得るに至ってホントの出来た男なのだ。猿面冠者も独眼竜も立派な好漢だ、ケチビンタな蜆ッ貝野郎ではない。貴様が予《か》ねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしが予ねて聞いた木下藤吉か、と互に面を見
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