九郎兵衛が京都から浅野長政等の書を持って来て、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期に違ってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書を齎《もた》らさしめ、守屋|守柏《しゅはく》、小関《おぜき》大学の二人を京へ遣ったが、政宗の此頃は去年大勝を得てから雄心|勃々《ぼつぼつ》で、秀吉東下の事さえ無ければ、無論常陸に佐竹を屠って、上野下野と次第に斬靡《きりなび》けようというのだから、北条征伐に狩出されるなどは面白くなかったに相違無い。ところが秀吉の方は大軍堂々と愈々《いよいよ》北条征伐に遣って来たのだ。サア信書の往復や使者の馬の蹄《ひづめ》の音の取り遣りでは無くなった、今正に上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。金の千成瓢箪《せんなりびょうたん》に又一ツ大きな瓢箪が添わるものだろうか、それとも北条氏|三鱗《みつうろこ》の旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実其実力で天下を取るべきものか。政宗は抜かぬ刀を左手《ゆんで》に取り絞って、ギロリと南の方を睥睨《へいげい》した。
たぎり立った世の士《さむらい》に取って慚《は》ずべき事と定まっていたことは何ヶ条もあった。其中先ず第一は「聞怯《ききお》じ」というので、敵が何万来るとか何十万寄せるとか、或は猛勇で聞えた何某《なにがし》が向って来るとかいうことを聞いて、其風聞に辟易《へきえき》して闘う心が無くなり、降参とか逃走とかに料簡《りょうけん》が傾くのを「聞怯じ」という。聞怯じする奴ぐらいケチな者は無い、如何に日頃利口なことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い。次に「見崩れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮の如く雲の如き大軍、又は勇猛|鷙悍《しかん》の威勢を望み見て、こいつは敵《かな》わないとヒョコスカして逃腰になり、度を失い騒ぎかえるのである。聞怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頭の無い事は同様である。「不覚」というのは又其次で、これは其働きの当を得ぬもので、不覚の好く無いことは勿論であるが、聞怯じ見崩れをする者よりは少しは恕《じょ》すべきものである。「不鍛煉《ふたんれん》」は「不覚」が、心掛の沸《たぎ》り足らないところから起るに比して又一段と罪の軽いもので、場数を踏まぬところから起る修行不足である。聞怯《ききお》じ[#ルビの「ききお」は底本では「ききおじ」]、見崩れする奴ほど人間の屑《くず》は無いが、扨《さて》大抵の者は聞怯じもする、見崩れもするもので、独逸《ドイツ》のホラアフク博士が地球と彗星《すいせい》が衝突すると云ったと聞いては、眼の色を変えて仰天し、某国のオドカシック号という軍艦の大砲を見ては、腰が抜けそうになり、新学説、新器械だ、ウヘー、ハハアッと叩頭する類《たぐい》は、皆是れ聞怯じ見崩れの手合で、斯様《こう》いう手合が多かったり、又大将になっていたりして呉れては、戦ならば大敗、国なら衰亡する。平治の戦の大将藤原信頼は重盛に馳向われて逃出して終《しま》った。あの様な見崩れ人種が大将では、義朝や悪源太が何程働いたとて勝味は無い。鞭声《べんせい》粛々夜河を渡った彼《か》の猛烈な謙信勢が暁の霧の晴間から雷火の落掛るように哄《どっ》と斬入った時には、先ず大抵な者なら見ると直に崩れ立つところだが、流石《さすが》は信玄勢のウムと堪《こら》えたところは豪快|淋漓《りんり》で、斬立てられたには違無かろうが実に見上げたものだ。政宗の秀吉に於ける態度の明らかに爽《さわ》やかで無かったのは、潔癖の人には不快の感を催させるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出来る力を有《も》って居たので、彼の南部の九戸《くのへ》政実ですら兎に角天下を敵にして戦った位であるから、まして政宗が然様《そう》手ッ取早く帰順と決しかねたのも何の無理があろう。梵天丸《ぼんてんまる》の幼立からして、聞怯じ、見崩れをするようなケチな男では無い。政宗の幼い時は人に対して物羞《ものはじ》をするような児で、野面《のづら》や大風《おおふう》な児では無かったために、これは柔弱で、好い大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、小児の時に内端《うちば》で人に臆したような風な者は柔弱臆病とは限らない、却《かえ》って早くから名誉心が潜み発達して居る為に然様いう風になるものが多いのである。片倉小十郎景綱というのは不幸にして奥州に生れたからこそ陪臣で終ったれ、京畿に生れたらば五十万石七十万石の大名には屹度《きっと》成って居たに疑無い立派な人物だが、其|烱眼《けいがん》は早くも梵天丸の其様子を衆人の批難するのを排して、イヤイヤ、末頼もしい和子《わこ》様である、と云ったという。二本松義継の為に遽《にわか》に父の輝宗が攫《さら》い去られた時、鉄砲を打掛けて其為に父も殺
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