成と直江兼続の言を用い、利休の弟子の瀬田|掃部《かもん》正忠に命じて毒茶を飲ませたなどと云うのは、実に忌々《いまいま》しい。正忠の茶に招かれて、帰宅して血を咯《は》いたことは有ろうが、それは病気の故で有ったろう。無い事に証拠は無いものであるから、毒を飼わなかったという証拠は無い訳だが、太閤が毒を飼ったということは信ぜられない。太閤が然様《そん》なことをする人とは思えないばかりで無い、然様なことをする必要が何処にあるであろう。氏郷が生きて居れば、豊臣家は却《かえ》って彼様《あんな》にはならなかったろう。氏郷が利家と仲好く、利家は好い人物であり、氏郷と家康とは肌合が合わぬのであった。然様いうことを知らぬような寐惚《ねぼ》けた秀吉では無い。或時氏郷邸で雁の汁の会食があって、前田肥前守、細川越中守、上田主水、戸田武蔵守など参会したことがあった。食後雑談になって、若《も》し太閤殿下に万一の事があったら、天下を掟《おきて》するものは誰だろうということが話題になった。其時氏郷は、あれあれ、あの親父、と云って肥前守利長を指さした。利長の親父は即ち利家だ。利長は、飛騨殿は何を申さるるや、とおとなしい人だから笑った。皆々は些《ちと》合点しかねた。で氏郷は、利家は武辺なり、北国三州の主なり、京都までの道すがらに足に障る者もなく、毛利は有りても浮田が遮り申す、家康|上洛《じょうらく》を心掛けなば此の飛騨が之有る、即時に喰付て箱根を越えさせ申すまじ、又諸大名多く洛に在りて事起らば、猶更《なおさら》利家の味方多からん、と云ったと云う。氏郷が家康に喰付けば、政宗が氏郷に喰付きもするだろうが、それは兎に角として、氏郷は利家|贔屓《びいき》であった。又他の場合にも氏郷は利家が天下を掟するに足ることを云い、前田殿を除きてはと問われたら、其時はおれが、と云ったので、徳川殿はと問う者が出たところ、彼《あ》の物悋《ものおし》みめがナニ、と云った談《はなし》が伝えられている。氏郷が家康を重く視ていず、又余り快く思っていなかったことは実際だったろう。秀吉も猜忌《さいき》の念の無いことは無い。然し氏郷を除きたがる念があったとすれば、余程訳の分らぬ人になって、秀吉の価は大下落する。氏郷に毒を飼ったのは三成の讒《ざん》に本づくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血を患ったと同じ人が記し、面は黄に黒く、項頸《うなじ》の傍《かたわら》、肉少く、目の下|微《すこ》し浮腫《ふしゅ》し、其後|腫脹《しゅちょう》弥《いよいよ》甚しかったと記してある。法眼|正純《まさずみ》の薬、名護屋にて宗叔の薬、又京の半井道三《なからいどうさん》等の治療を受けたとある。一朝一夕の病気ではない。想像するに腎臓《じんぞう》などの病で終ったのだろう。南禅寺霊三和尚の慶長二年の氏郷像賛に「可[#レ]惜談笑中窃置[#二]|鴆毒《ちんどく》[#一]」の句が有ったとしても、それは蒲生の家臣の池田和泉守が氏郷の死を疑ったに出た想像に本づいたものであろう。下風の謡が氏郷の父の賢秀の上を笑ったのであろうとも、一族の山法師の崇禅院の事を云ったのであろうとも、何でも差支無いと同じく、深く論ずるに値せぬ。
 彼《か》の氏郷が自ら毒飼をされた事を知って、限りあればの歌を詠ずると、千利休が「降ると見ば積らぬさきに払へかし雪には折れぬ青柳《あをやぎ》の枝」という歌を示して落涙したなどというのは余り面白くない演劇だ。降ると見ばの歌を聞いたとて毒を飼われて終《しま》った後に何になろう。且《かつ》其歌も講釈師が示しそうな歌で、利休が示しそうな歌ではない。氏郷の辞世の歌は毒を飼われたのを悟って詠じたと解せずとも宜かろう。二月七日に死んだのである。春の事であり、花を惜むことを詠んだので、其中おのずからに自ら傷んで居るのである。別に毒の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》などはせぬ。政宗をさえ羽柴陸奥守にして居る太閤が、何で氏郷に毒を飼うような卑劣狭小な心を有《も》とう。太閤はそんなケチな魂を有っては居ぬ人と思われる。ただ氏郷が寿命が無くて、朝鮮へ国替の願を出さずに終ったことは、氏郷の為に、太閤の為に惜んでも余りある。太閤は無論悦んで之を許した事であろうに。家康も家康公と云って然るべき方である、利家も利家公と云って然るべき人である、其他上杉でも島津でも伊達でも、当時に立派な沸《たぎ》り立った魂は少くないが、朝鮮へ国替の願を出そう者は、忠三郎氏郷のほかに誰が有ったろう。



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
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