《これなく》、と云い抜けたのも此時の事である。鶺鴒の眼睛《がんせい》の在処《ありどこ》を月に三度易えるとは、平生から恐ろしい細かい細工を仕たものだ。
 政宗は是《かく》の如く証拠書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めなかった。溝《みぞ》の底の汚泥を掴《つか》み出すのは世態に通じたもののすることでは無い、と天明度の洒落者《しゃれもの》の山東京伝は曰《い》ったが、秀吉も流石《さすが》に洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通り抜けさせてやる気がある。人の腹の中が好いの悪いのと注文を云って居る絛虫《さなだむし》や蛔虫《かいちゅう》のようなケチなものではない。三百代言|気質《かたぎ》に煩わしいことを以て政宗を責めは仕無かった。却って政宗に、一手を以って葛西大崎の一揆を平《たいら》げよと命じた。或は是れは政宗が自ら請うたのだとも云うが、孰《いず》れへ廻っても悪い役目は葛西大崎の土酋《どしゅう》で、政宗の為に小苛《こっぴど》い目に逢って終った。
 此年の夏、南部の九戸左近政実という者が葛西大崎などのより規模の大きい反乱を起したが、秀次の総大将、氏郷の先鋒《せんぽう》、諸将出陣というので論無く対治されて終い、それで奥羽は腫物《はれもの》の根が抜けたように全く平定した。氏郷は此時も功が有ったので、前後勲功少からずとて七郡を加増せられ、百万石を領するに至った。
 多分九戸乱の済んだ後、天正十九年か二十年の事であったろう。前年の行掛りから何様も氏郷政宗の間が悪い。自分の腹の中で二人に喧嘩《けんか》されては困るから、秀吉は加賀大納言前田利家へ聚楽《じゅらく》での内証話に、大納言方にて仲を直さするようにとの依頼をした。利家も一寸迷惑で無いことも無かったろう。仲の悪い二人を一室に会わせて仲が直れば宜いが、却て何かの間違から角立《かどだ》った日には、両虎|一澗《いっかん》に会うので、相搏《あいう》たんずば已《や》まざるの勢である。刃傷《にんじょう》でもすれば喧嘩両成敗、氏郷も政宗も取潰《とりつぶ》されて終うし、自分も大きな越度《おちど》である。二桃三士を殺すの計《はかりごと》とも異なるが、一席の会合が三人の身の上である。秀吉に取っては然様《そう》いうことが起っても差支は有るまいか知らぬが、自分等に取っては大変である。そこで辞し度いは山々だったろうが、両人の仲悪きは天下にも不為《ふため》であるという秀吉の言には、重量《おもみ》が有って避けることが出来ぬ。是非が無いから、氏郷政宗を請待《しょうたい》して太閤《こう》の思わくを徹することにした。氏郷は承知した。政宗も太閤内意とあり、利家の扱いとあり、理の当然で押えられているのであるから戻《もど》くことは出来ぬ。然し主人の利家は氏郷と大の仲好しで、且又免れぬ中の縁者である、又左衛門が氏郷|贔屓《びいき》なのは知れきった事である。特《こと》に前年自分が氏郷を招いた前野の茶席の一件がある。如何に剛胆な政宗でも、コリャ迂闊《うかつ》には、と思ったことで有ろう。けれども我儘《わがまま》に出席をことわる訳にはならぬ、虚病も卑怯《ひきょう》である。是非が無い。有難き仕合、当日|罷出《まかりい》で、御芳情御礼申上ぐるでござろう、と挨拶せねばならなかった。余り御礼など申上度いことは無かったろう。然し流石は政宗である、シャ、何事も有らばあれ、と参会を約諾した。
 其日は来た。前田利家も可なり心遣いをしたことであろうが、これは又人物が大きい、ゆったりと肉つきの豊かなところが有って、そして実は中々骨太であり、諸大名の受けも宜くて徳川か前田かと思われたほどであるから、かかる場合にも坦夷《たんい》の表面の底に行届いた用意を存して居たことであろう。相客には浅野長政、前田徳善院、細川越中守、金森法印、有馬法印、佐竹|備後守《びんごのかみ》、其他五六人の大名達を招いた。場処は勿論主人利家の邸《やしき》で、高楼の大広間であった。座席の順位、人々の配り合せは、斯様《こう》いう時に於て非常に主人の心づかいの要せらるるものだ。無論氏郷を一方の首席に、政宗を一方の首席に、所謂《いわゆる》両立《りょうだて》というところの、双方に甲乙上下の付かぬように請じて坐せしめた事だろう。それから自然と相客の贔負《ひいき》贔負が有るから、右方贔負の人々をば右方へ揃え、左方贔負の人々を左方へ揃えて坐らせる仕方もあれば、これを左右|錯綜《さくそう》させて坐らせる坐らせ方も有る訳で、其時其人其事情に因って主人の用意は一様に定った事では有るまいが、利家が此日人々を何様《どう》組合せて坐らせたかは分らない。但し此日の相客の中で、佐竹の家は伊達の家と争い戦った事はあるが元来が親類合だから、伊達が蒲生に対する場合は無論備後守は伊達贔負の随一だ。徳善院は早くから政宗と懇親であ
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