という歌なんどは宜いが、雪まじり雨の降る夜の露営つづきは如何に強い武人であり優しい歌人であり侘《わび》の味知りの茶人である氏郷でも、木《こ》の下風《したかぜ》は寒くして頬に知らるる雪ぞ降りけるなどは感心し無かったろう。桑折《こおり》、苅田、岩沼、丸森などの処々、斯様《こう》いう目を見たのであるから、蒲生家の士の正望の書いたものに「憎しということ限り無し」と政宗領の町人百姓の事を罵《ののし》っているのも道理である。
 押されつ押しつして、十一月の十七日になった。仲冬の寒い奥州の長途も尽きて漸《ようや》く目ざす叛乱地に近づいた。政宗は吾が領の殆んど尽頭《はずれ》の黒川の前野に陣取った。前野とあるのは多分富谷から吉岡へ至る路の東に当って、今は舞野というところで即ち吉岡の舞野であろう。其処で其日政宗から氏郷へ使者が来た。使者の口上は、明日路ははや敵の領分にて候、当地のそれがしが柴の庵《いおり》、何の風情も無く侘しうは候が、何彼《なにか》と万端御意を得度く候間、明朝御馬を寄せられ候わば本望たる可く、粗茶進上|仕度《つかまりたく》候、という慇懃《いんぎん》なものであった。日頃懇意の友情こまやかなる中ならば、干戈《かんか》弓鉄砲の地へ踏込む前に当って、床の間の花、釜の沸音《にえおと》、物静かなる草堂の中で風流にくつろぎ語るのは、趣も深く味も遠く、何という楽しくも亦嬉しいことであろう。然し相手が相手である、伊達政宗である。異《おつ》な手を出して来たぞ、あやしいぞ、とは氏郷の家来達の誰しも思ったことだろう。皆氏郷の返辞を何と有ろうと注意したことであろう。ところが氏郷は平然として答えた。誠に御懇志かたじけのうこそ候え、明朝参りて御礼を申そうず、というのであった。
 イヤ驚いたのは家来達であった。政宗|謀叛《むほん》とは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と云った主人が、政宗に招かれて躪《にじ》り上りから其茶室へ這入《はい》ろうというのである。若《も》し彼方に於てあらかじめ大力|手利《てきき》の打手を用意し、押取籠《おっとりこ》めて打ってかからんには誰か防ぎ得よう。主人若し打たれては残卒全からず、何十里の敵地、其処《そこ》の川、何処の峡《はざま》で待設けられては人種《ひとだね》も尽きるであろう。こは是れ一期《いちご》の大事到来と、千丈の絶壁に足を爪立て、万仞《ばんじん》の深き淵に臨んだ思がしたろう。飛んでも無い返辞をして呉れたものだと、怨みもし呆れもし悲みもした事であろう。然し忠三郎氏郷は忠三郎氏郷だ。しおらしくも茶を習うたる田舎大名が、茶に招くというに我が行かぬ法は無い、往《ゆ》いて危いことは有るとも、招くに往かずば臆したに当る、機に臨みて身を扱おうに、何程の事が有ろうぞ、朝の茶とあるに手間暇はいらぬ、立寄って政宗が言語《ものいい》面色《つらつき》をも見て呉りょう、というのであったろう。政宗の方には何様いう企図が有ったか分らぬ。蒲生方では政宗が氏郷を茶讌《ちゃえん》に招いたのは、正《まさ》に氏郷を数寄屋《すきや》の中で討取ろう為であったと明記して居る。然しそれは実際|然様《そう》だったかも知れぬが、何も政宗の方で手を出して居る事実が無いから、蒲生方で然様思ったという証拠にはなるが、政宗方で然様いう企を仕たという証拠にはならぬ。又万一然様いう企をしたとすれば、鶺鴒《せきれい》の印の眼球《めだま》で申開きをするほどの政宗が、直接自分の臣下などに手を下させて、後に至って何様《どう》ともすることの出来ぬような不利の証拠を遺そうようはない。前野と敵地大崎領とは目睫《もくしょう》の間であるから、或は一揆方《いっきがた》の剛の者を手引して氏郷の油断に乗じて殺させ、そして政宗方の者が起って其者共を其場で切殺して口を滅して終《しま》おう、という企をしたというのならば、其の企も聊《いささ》かは有り得もす可きことになる。然《さ》も無くば政宗にしては些《ちと》智慧が足らないで手ばかり荒いように思える。但し蒲生方の言も全く想像にせよ中《あた》って居るところが有るのでは無いかと思われる所以《ゆえん》は幾箇条もあり、又ずっと後に至って政宗が氏郷に対して取った挙動で一寸|窺《うかが》えるような気のすることがある。それは後に至って言おう。此処では政宗に悪意が有った証は無いというのを公平とする。が、何にせよ此時蒲生方に取って主人氏郷が茶讌《ちゃえん》に赴くことを非常に危ぶんだことは事実で、そして其の疑懼《ぎく》の念を懐《いだ》いたのも無理ならぬことであった。氏郷が其の請を拒まないで、何程の事やあらんと懼《おそ》れ気《げ》も無しに、水深うして底を知らざる魔の淵の竜窟|鮫室《こうしつ》の中に平然として入ろうとするのは、縮むことを知らない胆ッ玉だ。織田信長は稲葉一鉄を茶室に殺そうとしたし、
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