乱の時のような態度を取って居た日には、武道も立たぬし、秀吉の眼も瞋《いか》ろうし、木村父子を子とも旗下とも思えと、秀吉に前以て打って置かれた釘がヒシヒシと吾《わが》胸に立つ訳である。で、氏郷は町野に対して、汝の諫言を破るでは無いが、何様《どう》も然様《そう》は成りかねる、仮令《たとい》運|拙《つたな》く時利あらずして吾が上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親とも仰げと殿下の云われた木村父子を見継がぬならば、我が武道は此後全く廃《すた》る、と云切った。町野も合点の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮べて、御尤《ごもっとも》の御仰と承わりました、然らば某《それがし》も一期《いちご》の御奉公、いさぎよく御[#(ン)]先を駈け申そう、と皺腕《しわうで》をとりしぼって部署に就く事に決した。斯様《こう》いう思慮を抱き、斯様いう決着を敢てしたのは必ず町野のみでは無かったろう、一族譜代の武士達には、よくよく沸《たぎ》り切った魂の持主と、分別の遠く届く者を除いては、随分数多いことで有ったろうし、そして皆氏郷の立場を諒解するに及んで、奮然として各自の武士魂に紫色や白色の火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《かえん》を燃やし立てたことであろう。それで無くては四方八方難儀の多い上に、横ッ腹に伊達政宗という「くせ者」が凄い眼をギロツカせて刀の柄《つか》に手を掛けて居る恐ろしい境界《きょうがい》に、毅然《きぜん》たる立派な態度を何様して保ち得られたろう! であるから氏郷の佐沼の後詰は辺土の小戦のようであるが、他の多くの有りふれた戦には優《まさ》った遣りにくい戦で、そして味わって見ると中々|濃《こま》やかな味のある戦であり、鎗《やり》、刀、血みどろ、大童《おおわらわ》という大味な戦では無いのである。
ここに不明の一怪物がある。それは云う迄もなく、殊勝な念仏行者の満海という者の生れ代りだと言われている伊達の藤次郎政宗である。生れ代りの説は和漢共に随分俗間に行われたもので、恐れ多いことだが何某《なにがし》天皇は或修行者の生れ代りにわたらせられて、其前世の髑髏《どくろ》に生いたる柳が風に揺られる度毎に頭痛を悩ませたもうたなどとさえ出鱈目《でたらめ》を申して居たこともある。武田信玄が曾我五郎の生り代りなどとは余り作意が奇抜で寧《むし》ろ滑稽《こっけい》だが、宋の蘇東坡《そとうば》は戒禅師の
前へ
次へ
全77ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング