京畿に威を振った信長の縁者、小さくは有るが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。
これよりして忠三郎は信長に従って各処の征戦に従事して功を立てて居り、信長が光秀に弑《しい》された時は、光秀から近江《おうみ》半国の利を啗《くら》わせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引受けて城に拠《よ》って戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下に就いて段々と武功を積んだが、特《こと》に九州攻めには、堀秀政の攻めあぐんだ巌石《がんじゃく》の城に熊井越中守を攻め伏せて勇名を轟《とどろ》かした。今ここに氏郷の功績を注記したい意も無いから省略するが、かくて十余年の間に次第に大身になり、羽柴の姓を賜わって飛騨守《ひだのかみ》氏郷といえば味方は頼もしく思い、敵は恐ろしく思う一方の雄将となって終《しま》った。秀賦の名は秀吉と相犯すを忌んで、改めて氏郷としたのであって、先祖田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年、秀吉が聚楽《じゅらく》の第《だい》を造った其年、氏郷は伊勢の四五百森《よいおのもり》へ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島の松の字を目出度しとして用いたのである。当時正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。
小田原陣の時、無論氏郷は兵を率いて出陣して居て、割合に他の大名よりは戦に遇って居り、戦功をあらわして居る。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津と附いて来たのであるが、今しも秀吉の鑑識を以て会津の城主、奥州出羽の押えということに定められたのである。
氏郷は法を執ること厳峻《げんしゅん》な人で、極端に自分の命令の徹底的ならんことを然る可き事とした人である。勿論乱れ立った世に在っては、一軍の主将として下知《げぢ》の通りに物事の捗《はこ》ぶのを期するのは至当の訳で、然《さ》無《な》くても軍隊の中に於ては下々の心任せなどが有ってはならぬものであるが、それでも自らに寛厳の異があり程度がある。郭子儀《かくしぎ》、李光弼《りこうひつ》はいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまは大《おおい》に違っていたことが伝えられている。氏郷は恐ろしく厳しい方で、小田原北条攻の為に松坂を立った二月七日の事だ、一人の侍に蒲生重代の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》を持たせて置いたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見廻ったとき、此処に居よという
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