城と申す敵城有って、先手の四人合戦仕った、と述べた。サアここである。氏郷がここで名生の城に取掛けて手間取って居れば、四年前の小山田筑前と同じ事になって、それよりも猶《なお》甚だしい不利の場合に身を置くことになるのである。鏖殺《おうさつ》さるべき運命を享受する位置に立つのである。
氏郷は真に名生の城が前途に在ったことを知らなかったろうか。種々の書には全く之を知らずに政宗に欺かれたように記してある。成程氏郷の兵卒等は知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえって居た小田原を天下の軍勢と共に攻めた時にさえ、忍びの者を出して置いて、五月三日の夜の城中からの夜討を知って、使番を以て陣中へ夜討が来るぞと触れ知らせた程に用意を怠らぬ氏郷である。まして未だ曾《かつ》て知らぬ敵地へ踏込む戦、特《こと》に腹の中の黒白《こくびゃく》不明な政宗を後へ置いて、三里五里の間も知らぬ如き不詮議の事で真黒闇《まっくらやみ》の中へ盲目探りで進んで行かれるものでは無い。小田原の敵の夜討を知ったのは、氏郷の伊賀衆の頭《かしら》、忍びの上手《じょうず》と聞えし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城を窺《うかが》ったとある。伊賀衆というのは伊賀侍、若《もし》くは伊賀侍から出た忍びの術を習得した者共という義で、甲賀衆と云うのは江州甲賀の侍に本づく同様の義の語、そして転じては伊賀衆甲賀衆といえば忍びの術を知って偵察の任を帯びて居る者という意味に用いられたのである。日本語も満足に使えぬ者等が言葉の妄解妄用を憚《はばか》らぬので、今では忍術は妖術《ようじゅつ》のように思われているが、忍術は妖術では無い、潜行偵察の術である。戦乱の世に於て偵察は大必要であるから、伊賀衆甲賀衆が中々用いられ、伊賀流甲賀流などと武術の技としての名目も後には立つに至った。石川五右衛門は伊賀河内の間の石川村から出た忍術者だったまでだ。町野輪之丞は伊賀衆の頭とある、頭が有れば手足は無論有る。不知案内の地へ臨んで戦い、料簡《りょうけん》不明の政宗と与《とも》にするに、氏郷が此の輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせて置いたり徒《いたず》らに卒伍《そつご》の間に編入して居ることの有り得る訳は無い。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、妄談者流の口吻《こうふん》に従えばそれこそ鼠《ねずみ》になって孔《あな》から潜《もぐ》り込ん
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