いうのは、此頃の言葉で五隊で一集団を成すのを五手与、六隊で一集団を成すのを六手与というのであった。さて此の三与は勿論政宗の押えであるから、十分に戦を持って、皆後へ向って逆歩《しりあし》に歩み、政宗打って掛らば直にも斬捲《きりまく》らん勢を含んで居た。逆歩に歩むとは記してあるが、それは言葉通りに身構は南へ向い歩《あし》は北へ向って行くことであるか、それとも別に間隔交替か何かの隊法があって、後を向きながら前へ進む行進の仕方が有ったか何様か精《くわ》しく知らない。但し飯田忠彦の野史《やし》に、行布[#二]常蛇陣[#一]とあるのは全く書き損いの漢文で、常山蛇勢の陣というのは、これとは異なるものである。何はあれ関勝蔵の一隊を境にして、前の諸隊は一揆勢に向い、後の三与は政宗に備えながら、そして全軍が木村父子救援の為に佐沼の城を志して、差当りは高清水の敵城を屠《ほふ》らんと進行したのは稀有《けう》な陣法で、氏郷|雄毅《ゆうき》深沈とは云え、十死一生、危きこと一髪を以て千鈞《せんきん》を繋《つな》ぐものである。既に急使は家康にも秀吉にも発してあるし、又政宗が露骨に打って掛るのは、少くとも自分等全軍を鏖殺《みなごろし》にすることの出来る能《よ》く能く十二分の見込が立た無くては敢てせぬことであると多寡を括《くく》って、其の政宗の見込を十二分には立たせなくするだけの備えを仕て居れば恐るるところは無い、と測量の意味であるところの当時の言葉の「下墨《さげすみ》」を仕切って居り、一揆征服木村救援の任を果そうとして居るところは、其の魂の張り切り沸《たぎ》り切って居るところ、実に懦夫《だふ》怯夫《きょうふ》をしてだに感じて而して奮い立たしむるに足るものがある。
 高清水まで敵城は無いと云う事であったが、それは真赤な嘘であった。中新田を出て僅の里数を行くと、そこに名生の城というが有って一揆の兵が籠《こも》って居り、蒲生軍に抵抗した。先隊の四将、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近等、何|躊躇《ちゅうちょ》すべき、しおらしい田舎武士めが弓箭《ゆみや》だて、我等が手並を見せてくれん、ただ一[#(ト)]揉《もみ》ぞと揉立てた。池野作右衛門という者一番首を取る、面々励み勇み喊《おめ》き叫んで攻立った。作右衛門|素捷《すばや》く走り戻って本陣に入り、首を大将の見参《げんざん》に備え、ここに名生の
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