ゐるのもうれしい景色であつた。
 朝食を終つてから宿の主人や東日《とうにち》の通信員の案内を得て復《ふたゝ》び華嚴の瀧へと向つた。大平の瀧見臺へ到る途中、瀧の流れる見當へと行く右手の、道も無い林間叢裏に處々《ところ/″\》鐵網を張つて人の通行をさせぬやう用心してあるのが見えた。無理に瀧の上へ出て生命《いのち》を粗末にしようとする狂人共を制する爲の手配であるが、見るさへにが/\しい。
 瀧見臺に立つて見ると、昨夜の幽味は少しも無くて瀧は明らかに見え、無數の岩燕《いはつばめ》が瀧飛沫《たきしぶき》の煙の中を、朝の日の光を負ひながら翼も輕げに快く入亂れて上下左右してゐる。この臺から瀧を望むのも惡くは無いが、瀑布といふものの性質が俯瞰《ふかん》もしくは對看するよりは、その下にゐて仰望する方がその美を發揮する。然《さ》なくばやゝ離れた位置から遠くわが帽子の簷《ひさし》のあたりに看る方がおもしろい。李太白の廬山《ろざん》の瀑布を望む詩の句にも、仰ぎ觀れば勢|轉《うたゝ》雄なり、壯《さかん》なる哉《かな》造化の功、といつてゐるが、瀑布の畫を描けば大抵李太白は點景人物になつてゐるほど瀑布好《たきず》きの詩人で、自分からも、仍《よつ》て諧《かな》ふ夙《つと》に好む所に、永く願はくは人間を辭せん、といつてゐる位に、名山の中に飽《あく》までも浸りたがつた先生である。その李太白先生も仰觀の一語を道下《いひくだ》してゐる。どうも瀑布そのものが高處より落ちるところがその生命なのであるから、仰ぎ觀るのがよいに相違無く、さうしてからこそ、初めて驚く河漢の落つるを、半《なかば》灑《そゝ》ぐ雲天の裏《うち》、なぞといふ詩句も出來て來るのである。また遠望するのも宜しい。同じ人が、日は香爐(峯の名)を照して紫煙を生ず、遙に看る瀑布の長川を挂《か》くるを、といつてゐるのは遠望の觀賞である。華嚴は遠望する譯にはゆかぬが、瀑布の下へは幸にして下りられる。そこで瀧見臺より少し下つて、休み茶屋のあるところから谷底へと下りた。丁度瀧見臺の眞下へ下りるのだから、徑は甚だ危急であるが、老人の自分が靴をはいたまゝで下りられるのであるから、さして老人の冷水業といふほどでもない。勿論|巖岨《いはそば》を截《き》り削つて造つた道だから、歩を誤つては大變であるが、鐵の棒を巖へ立てたり、力になるやうに鐵線《はりがね》を架《わた》してあつたり、親切に出來てゐるから危いことも無い。
 次第々々に下りて行くと華嚴の瀑布は見えなくなるが、やがてどう/\といふ瀑布の音が聞えて、右手に立派な瀧が見える。それは白雲の瀧といふので、その瀧の末の流れを鵲《かさゝぎ》の橋によつて渡つて對岸へ路はつゞく。橋の上は丁度白雲の瀧を見るによい。これは屈折はしてゐるが五十間であるから、他の土地に在つたら本尊樣になるだけの立派な瀧だが、華嚴の近くにあるので月前の星のやうに人に思はれるのは是非が無い。併し鵲の橋の上に立つてゐると瀧が近いので、瀧飛沫は冷やかに領《えり》に下《お》ちて衣袂《いべい》皆しめり、山風颯然として至つて、瀧のとゞろき、流の沸《たぎ》りと共に、人をして夏のいづこにあるかを忘れしむるところ、捨て難いものがある。橋の名も宜い、瀧の名も宜い、紅葉の頃には特《こと》にウツリが宜からうと思はれる雅境である。橋を渡つて巖路を一轉囘すると、やがて華嚴の大觀は前面に現れた。

     四

 大谷川の源頭の流れに對し、華嚴の大瀑布を右手の軒近く看て、小茶亭が立つてゐる。それが即ち五郎兵衞茶屋であつて、今日のところではこの茶店又はその附近程、天下の名瀑布たるこの瀑布の絶景を賞するに適した處は無い。大谷川となつて瀧の水が流れ出す東の一方を除いては、三方は翠峯青嶂に包まれてゐるその中央の高處から雪と噴《ふ》き雷《らい》と轟いて、岩壁にもさはらずに一線に懸空的に落ちて來るのが華嚴の壯觀である。瀧の幅と高さの比例も自然に甚だ審美的であり、瀧壺の大きさもこれにかなつてゐる。瀧の背景になつてゐる岩壁も上半部が三段ばかりに横※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《よこひだ》になつて見えるが、その最上部のものは恰も屋簷《ひさし》のやうに張出してゐて、その縁邊が鋸齒状《きよしじやう》をなしてゐるので鋸岩《のこぎりいは》といふさうであるが、若《も》しそれ近くついて視る時は、屋簷のやうに張り出してゐるその出《で》が五間餘もあるといふのであるから驚く。これ等の巖壁の罅隙は、無數に亂飛してゐる巖燕の巣であつて、全く燕でなくては到る能はざるところである。巖壁の中部より下は、幾條となく水がほとばしり出してゐて各※[#二の字点、1−2−22]衞星的小瀑布をなしてゐる。その中で數へるに足りるのが十二もあるので、十二の瀧といふ名を與へられてゐる。十二の瀧の一つで、華嚴に近く、向つて右手のものは、高さが百三十尺もあるといふから、たとへ衞星的のものですらも他處へ持出せば、壯觀だの偉觀だのといはれるに足りるのである。これを以て推《お》して華嚴の雄大を知るべしである。
 まして此境《こゝ》が冬になつて氷雪の時にあへば、岩壁四圍悉く水晶とこほり白壁と輝いて、たゞ一條|長《とこし》へに九天より銀河の落つるを看る、その美しさは夏季に勝ることは遠いものであらうが、今は、千年流れて盡きず、六月地|長《とこし》へに寒しといふ詩の句の通り、人をして萬斛《ばんこく》の凉味に夏を忘れしめ、飛沫餘煙翠嵐を卷いて、松桂千枝萬枝|潤《うるほ》ひ、龍姿雷聲白雲を起して、岩洞清風冷雨鎖してゐる快さをもつて吾人を待つてくれる。この華嚴の景を直寫しようとして、石偏《いしへん》や山偏や散水《さんずゐ》や雨冠《あまかんむり》の字を澤山持ち出したら千言二千言の文の綴るのも難事では有るまいが、活字制限の世の中に文選《もんぜん》的の詞章を作つて活字の文選者《ぶんせんしや》を弱らせたとて野暮《やぼ》なことであるし、女學生や小學生も修學旅行で昵懇になつてゐる場所のことを、今更らしく艮齋張《ごんさいば》りの文なぞにするのも餘り小兒《こども》臭いから、夏向はすべて抛下著《はうげぢやく》にかぎると、あつさり瀧の水に流してしまつて、煙草のしめる瀧壺の冷え、その煙草から李白の詩句では無いが紫煙を生じさせてゆつくり一休み。
 五郎兵衞茶屋の主人、名は五郎作、六十餘の好人物的風采を具した男で、茶屋開始者五郎兵衞老人の子である。五郎兵衞老人は華嚴の瀧が立派な瀧であるに拘らず適當な觀賞場所が無くて、たゞ瀧見臺から觀望するに過ぎぬ事を他國の人々が飽かず思ふのを道理と感じた。そしてこれは瀧壺へ下りさせるに足る徑《みち》を開くに限ると考へた。本業は人を使つて山深く入つて曲物《まげもの》(日光名物であるに拘らず、今はこれを鬻《ひさ》いでゐることの少いのは遺憾だ)の材料たる木をとるのであつたが、その事を思ひ立つてから、獨力で測量し、獨力で開鑿しはじめた。人々はそんな無理な事が出來るものかと嗤笑《しせう》した。非難や嗤笑は、世の中の賢顏《かしこがほ》する詰らない男、ガスモク野郎、十把一《じつぱひと》からげ野郎の必ず所有してゐる玩具《おもちや》である。五郎兵衞老人は玩具におどかされるやうな男では無かつた。その鶴嘴《つるはし》を手にしだした時はすでに六十三歳であつたが、せかず忙《いそ》がず、毎年々々コツ/\と路を造つた。七年の歳月は過ぎた。明治三十三年に至つて路は成就した。それが即ち今の路である。三十三年以前は瀧壺へは下りられなかつたが、徑が出來てから世人は華嚴を十分に觀賞するを得るに至つたのである。耶馬溪《やばけい》も昇仙峽《しやうせんけう》も、これを愛しこれを開く人が有つてから世にあらはれるに至つたのである。華嚴も五郎兵衞老人を得てから愈※[#二の字点、1−2−22]その美を發したのである。瀧の神も吾人も五郎兵衞老人に滿腔の謝意を致さねばならぬ。

    五

 對岸の高處に明智平《あけちだひら》といふのがある。馬返しからそこを經て中禪寺へケーブルカー敷設の企てがある。それが成就すれば、八分乃至十二三分で馬返しから中禪寺へ行く事が出來るやうになる筈であるとのことだ。五郎兵衞老人の工事は誠意と勇氣との自力で出來たのだが、この工事は資本と巧智との衆力で出來るのである。出來上つた上はいづれも感謝に値するが、ケーブルカーの工事が勝景の風致の上に十分の考慮を拂つて施行されんことを望む。叡山筑波山の如きは無くもがなのものだといふ評さへ聞くが、こゝのは蓋《けだ》し出來れば出來た方が婦女老幼のために甚大の利を餽《おく》ることにならう。
 歸路《きろ》についた。白雲の瀧、かさゝぎの橋は矢張り好い感じを人に與へる。歸りは上りになるのと、一度でも歩いた路なのとで、嶮峻の感じを大に薄くする。上り了《をは》つて一休みしながら、下までの深さを考へると、箱根の大路から堂ヶ島へ下りる位、或はそれより一二丁少しくらゐのものであつた。
 中禪寺の區長に迎へられて、人々と共に宿に還ると直《たゞち》に湖に泛んだ。モーターボートで湖を一周しようといふのである。四山環翠、一水澄碧の湖上に輕艇を駛《はし》らすれば、凉風|面《おもて》を撲《う》つて、白波ふなばたに碎くるさま、もとより爽快の好い心持である。歌が濱の佛國、英國、獨國大使別館、いづれも景勝の地を占めて湖に臨んでゐる。立木觀音で艇を出でゝ、立木をきざんだ本尊の古拙ではあるが面白い像を見、勝道上人の所持であつたといふ傳《でん》の刀子《たうす》だの錫杖《しやくぢやう》だのを見た。
 勝道上人は日光の開山者で、日光を開くために前後十數年を費《つひや》し、それまでは世に知られ無い神祕境であつたのを遂に開いたのである。その事は空海の性靈集中の碑文に見え、またそれによつて書いたと見える元亨釋書《げんかうしやくしよ》にも見えてゐる。神護《じんご》景雲《けいうん》から延暦《えんりやく》にわたつての事で、弘法大師よりは少し前の人である。この頃は有力の佛者が諸所の山々を開いた時代で、小角《をつぬ》が芳野を開き、泰澄《たいちよう》が白山《はくさん》を開いたのなどは先蹤《せんしよう》をなしてゐる。上人の所持物だつたといふものが眞實であるならば、相當に貴族的有力者的生活者だつた事が窺ひ知られる。おもふに地方において中々の權力地位を有してゐた人であつて、それでこの山をも開き得たのであらう。元來この山の名は二荒山であつて、音讀して美しい字面を填《は》めて日光山となつたのは、たとへば赤倉温泉の中《なか》の嶽《たけ》が名香《なか》の嶽《たけ》の字で填められ、名香《みやうかう》を音讀して妙高山となり、今日《こんにち》では妙高山で通るやうになつたと同じである。また二荒を普陀落《ふだら》にあてゝ觀音所縁の山名に通はせ、それで觀音をきざみ、勸請《くわんじやう》などもしたのであらう、弘法の文にもはやくその洒落《しやれ》が見えてゐる。とにかく勝道上人のおかげで好い山が開けたものであるから、感謝の情を起さずにはゐられない。
 堂を出て心づくのは、華嚴の瀧に飛び込んだ馬鹿者どものために供養塔が建てられたり、地藏尊がきざまれたりしてゐることである。これは死者をかなしむ美しい人情のあらはれであるが、死者は眞に人をわづらはし地を汚したものである。死にたくなるには何《いづ》れそれだけの事由《わけ》があつてだらうから、一概に罵倒したくも無いことでは有るが、同胞の一人が飛び込んだとすると、さあ大變だ、大騷ぎをしてその死骸を搜し出す、それ/″\の公私手續きを取る、その面倒さは一通りのもので無い。死んだ人は彼《あ》の恐ろしい瀧の中へ飛込んだなら一切この世とは連絡が絶えてしまふ位に考へてでも有らうが、何樣《どう》してそんなに容易に一切が水の泡となるものでは無い。瀧壺は三十何尺の深さが有つても、屍骸を食つて消化するのでも何でも無いから、必ず之を吐き出す。大勢の土地の人々は必ず之を見付け出す。見るも物憂い醜い屍は、煩雜な手續きを經て後に適法に處理される。その厄介を人々
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