の川にかゝつてゐる橋を渡ると、周圍七里の一大湖は眼前に開けたが、霧が來去するので何程の濶《ひろ》さがあるか朦朧として、たゞ人の想像に任せるものとして見えたのも却つて興があつた。以前は橋を渡らずに二荒山《ふたらさん》神社の方へ湖畔に沿うて行つて、そこらに點在する旅館に泊つたものであるが、われ等は歌が濱の米屋といふに着いた。樓に上つて欄によると、湖を壓《あつ》して立つてゐる筈の男體山《なんたいざん》もぼんやりとして、近き對岸の家々の燈火《ひ》も霧のさつと風に拂はれる時は點々と明るく、霧のおほひかゝる時は忽ち薄れ忽ち見えずなつた。雲霧は山につきものであり、塵埃は都の屬物《つきもの》であるが、萬丈の塵は景氣が好い代りに少し息苦しい。山の湖の霧は凉やかでこそあれ、安らかに吾人の睡眠《ねむり》を包んでくれた。夢を訪《と》ふものは銀鈴を振るやうな河鹿の聲ばかりであつた。
三
平和の夢からさめて十日の朝だなと意識した時には、昨夜は少し厚過ぎるやうに思つた夜被《よぎ》も更に重く覺えなかつた。湖に面した廣縁に置かれた籐椅子によつて眺めると、昨日は水の面をはつて一望をたゞ有耶無耶《うやむや》の中に埋めた霧が、今朝はあとも無く晴れて、大湖を繞《めぐ》る遠い山々の胸や腰のあたりに白雲が搖曳《えうえい》してゐるばかりで、男體山は右手の前面に湖岸から直ちに四千尺の高さをもつて美しい傾斜で、翠色|滴《したゝ》るばかりに聳え立つてゐる。山が自然の作用によつて條をなして崩れて襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》のやうなものを造り出すのを、ゾレといふ國もありナギといふ國もあるが、男體山は頂上まで滿山樹木が茂つてゐるので、そのいはゆるナギの少いのは、人をして山に對してなつかしい和《やは》らかな感じをもたしむる所以で、それが加之《しかも》清らかに澄みきつた萬頃《ばんけい》の水の上にノッシリと臨んでゐるところは、水晶盤上に緑玉を堆《うづたか》うすとでもいひたい氣がする。二荒山神社及びその附近の人家が昨夜は霧のために遠く想はれたが、今朝は近々《ちか/″\》と指點し得るだけ空氣が明るいので、眼を男體山から左方へ移すと、連山が肩をつらね手を接して爭ひ立ち並び圍んでゐる中に、前白根奧白根が流石《さすが》にそれとうなづかせるだけの勇姿を示して、まだ殘つてゐる谷の雪が銀白の光を見せて
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