太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙《つと》に之《これ》を論じて、然《しか》る可《べ》からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其《その》歳《とし》閏《うるう》九月、たま/\天文《てんもん》の変ありて、詔《みことのり》を下し直言《ちょくげん》を求められにければ、山西《さんせい》の葉居升《しょうきょしょう》というもの、上書して第一には分封の太《はなは》だ侈《おご》れること、第二には刑を用いる太《はなは》だ繁《しげ》きこと、第三には治《ち》を求むる太《はなは》だ速やかなることの三条を言えり。其の分封|太侈《たいし》を論ずるに曰《いわ》く、都城|百雉《ひゃくち》を過ぐるは国の害なりとは、伝《でん》の文にも見えたるを、国家今や秦《しん》晋《しん》燕《えん》斉《せい》梁《りょう》楚《そ》呉《ご》※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]《びん》の諸国、各|其《その》地《ち》を尽して之《これ》を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜《つ》ぎ、之に賜《たま》うに甲兵衛士の盛《さかん》なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世《すうせい》の後は尾大《びだ
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