ん、堪えかねて泣き萎《しお》れたもう。翰林学士《かんりんがくし》の劉三吾《りゅうさんご》、御歎《おんなげき》はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君《ちょくん》と仰せ出されんには、四海心を繋《か》け奉らんに、然《さ》のみは御過憂あるべからず、と白《もう》したりければ、実《げ》にもと点頭《うなず》かせられて、其《その》歳《とし》の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即《すなわ》ち後に建文の帝《みかど》と申す。谷氏《こくし》の史に、建文帝、生れて十年にして懿文《いぶん》卒《しゅっ》すとあるは、蓋《けだ》し脱字《だつじ》にして、父君に別れ、儲位《ちょい》に立ちたまえる時は、正《まさ》しく十六歳におわしける。資性|穎慧《えいけい》温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘《わた》りて昼夜|膝下《しっか》を離れたまわず、薨《かく》れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠《や》せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾《なんじ》まことに純孝なり、たゞ子を亡《うしな》いて孫を頼む老いたる我をも念《おも》わぬことあらじ、と宣《のたま》いて
前へ
次へ
全232ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング