《な》せと。此《この》時《とき》や燕の軍の勢《いきおい》、実に岌々乎《きゅうきゅうこ》として将《まさ》に崩れんとするの危《き》に居《お》れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠《りょうえん》にして、而《しか》も本拠の四囲|亦《また》皆敵たる也。燕の軍戦って克《か》てば則《すなわ》ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而《しこう》して当面の敵たる何福《かふく》は兵多くして力戦し、徐輝祖《じょきそ》は堅実にして隙《ひま》無く、平安《へいあん》は驍勇《ぎょうゆう》にして奇を出《いだ》す。我軍《わがぐん》は再戦して再挫《さいざ》し、猛将多く亡びて、衆心|疑懼《ぎく》す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功|尽《ことごと》く廃《すた》りて、不振の形勢|新《あらた》に見《あら》われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離《かいり》、不測の変を生ずる無きを保《ほ》せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦《また》宜《むべ》なりというべし。然《しか》れども此《この》時《とき》の勢《いきおい》、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容《い》れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看《み》る明確、事を断ずる勇決、実に是《こ》れ豪傑の気象、鉄石の心膓《しんちょう》を見《あら》わせるものならずして何ぞや。時に坐《ざ》に朱能《しゅのう》あり、能は張玉《ちょうぎょく》と共に初《はじめ》より王の左右の手たり。諸将の中《うち》に於て年最も少《わか》しと雖《いえど》も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長《たけ》八尺、年三十五、雄毅開豁《ゆうきかいかつ》、孝友|敦厚《とんこう》の人たり。慨然として席を立ち、剣を按《あん》じて右に趨《おもむ》きて曰く、諸君|乞《こ》うらくは勉《つと》めよ、昔|漢高《かんこう》は十たび戦って九たび敗れぬれど終《つい》に天下を有したり、今事を挙げてより連《しきり》に勝《かち》を得たるに、小挫《しょうざ》して輙《すなわ》ち帰らば、更《さら》に能《よ》く北面して人に事《つか》えんや。諸君雄豪誠実、豈《あに》退心あるべけんや、と云いければ、諸将|相《あい》見《み》て敢《あえ》て言《ものい》うものあらず、全軍の心機《しんき》一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能|後《のち》に龍州《りゅうしゅう》に死して、東平王《とうへいおう》に追封《ついほう》せらるゝに至りしもの、豈《あに》偶然ならんや。
 燕軍の勢《いきおい》非にして、王の甲《よろい》を解かざるもの数日なりと雖《いえど》も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷《さいしょう》すと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中《うち》に、燕今は且《まさ》に北に還《かえ》るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議|徐輝祖《じょきそ》を召還《めしかえ》したもう。輝祖《きそ》已《や》むを得ずして京《けい》に帰りければ、何福《かふく》の軍の勢《いきおい》殺《そ》げて、単糸《たんし》の※[#「糸+刃」、第4水準2−84−10]《しない》少《すくな》く、孤掌《こしょう》の鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突《ちとつ》に備うる為に塹濠《ざんごう》を掘り、塁壁を作りて営と為《な》すを常としければ、軍兵休息の暇《いとま》少《すくな》く、往々|虚《むな》しく人力を耗《つく》すの憾《うらみ》ありて、士卒|困罷《こんひ》退屈の情あり。燕王の軍は塹塁《ざんるい》を為《つく》らず、たゞ隊伍《たいご》を分布し、陣を列して門と為《な》す。故に将士は営に至れば、即《すなわ》ち休息するを得、暇《いとま》あれば王|射猟《しゃりょう》して地勢を周覧し、禽《きん》を得《う》れば将士に頒《わか》ち、塁を抜くごとに悉《ことごと》く獲《う》るところの財物を賚《たま》う。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是《かく》の如し。一は人|役《えき》に就《つ》くを苦《くるし》み、一は人|用《よう》を為《な》すを楽《たのし》む。彼此《ひし》の差、勝敗に影響せずんばあらず。
 かくて対塁《たいるい》日を累《かさ》ぬる中《うち》、南軍に糧餉《りょうしょう》大《おおい》に至るの報あり。燕王|悦《よろこ》んで曰《いわ》く、敵必ず兵を分ちて之を護《まも》らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何《いか》で能《よ》く支えんや、と朱栄《しゅえい》、劉江《りゅうこう》等《ら》を遣《や》りて、軽騎を率いて、餉道《しょうどう》を截《き》らしめ、又|游騎《ゆうき》をして樵採《しょうさい》を妨げ擾《みだ》さしむ。何福《かふく》乃《すなわ》ち営を霊壁《れいへき》に移す。南軍の糧五方、平安《へいあん》馬歩
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