く》とは説を異にす。巍の言に曰《いわ》く、我が高皇帝、三代の公《こう》に法《のっと》り、※[#「贏」の「貝」に代えて「女」、第4水準2−5−84]秦《えいしん》の陋《ろう》を洗い、諸王を分封《ぶんぽう》して、四裔《しえい》に藩屏《はんぺい》たらしめたまえり。然《しか》れども之《これ》を古制に比すれば封境過大にして、諸王又|率《おおむ》ね驕逸《きょういつ》不法なり。削らざれば則《すなわ》ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親《しん》を親《したし》むの恩を傷《やぶ》る。賈誼《かぎ》曰く、天下の治安を欲《ほっ》するは、衆《おお》く諸侯を建てゝ其《その》力を少《すくな》くするに若《し》くは無しと。臣愚《しんぐ》謂《おも》えらく、今|宜《よろ》しく其《その》意《い》を師とすべし、晁錯《ちょうさく》が削奪の策を施す勿《なか》れ、主父偃《しゅほえん》が推恩の令《れい》に効《なら》うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権《けん》は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下|益々《ますます》親親《しんしん》の礼を隆《さか》んにし、歳時《さいじ》伏臘《ふくろう》、使問《しもん》絶えず、賢者は詔を下して褒賞《ほうしょう》し、不法者は初犯は之を宥《ゆる》し、再犯は之を赦《ゆる》し、三|犯《ぱん》改めざれば、則ち太廟《たいびょう》に告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈《あに》服順せざる者あらんやと。帝|之《これ》を然《さ》なりとは聞召《きこしめ》したりけれど、勢《いきおい》既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満《みちみ》ちたりければ、高巍《こうぎ》の説も用いられて已《や》みぬ。
 建文元年二月、諸王に詔《みことの》りして、文武の吏士《りし》を節制し、官制を更定《こうてい》するを得ざらしむ。此《こ》も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月|西平侯《せいへいこう》沐晟《もくせい》、岷王《びんおう》梗《こう》の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮|宗麟《そうりん》を誅《ちゅう》し、王を廃して庶人となす。又|湘王《しょうおう》柏《はく》偽《いつわ》りて鈔《しょう》を造り、及び擅《ほしいまま》に人を殺すを以て、勅《ちょく》を降《くだ》して之を責め、兵を遣《や》って執《とら》えしむ。湘王もと膂力《りょりょく》ありて気を負う。
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