ん》の漸《ようや》く逼《せま》るを如何《いかん》ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚《いずく》にぞ哀念かこれ有らん、と云《い》える、流石《さすが》に孔孟仏老《こうもうぶつろう》の教《おしえ》に於《おい》て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑|少《すくな》きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真《しん》豪傑、生きて長春不老の癡想《ちそう》を懐《いだ》かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容《しょうよう》として逼《せま》らず、晏如《あんじょ》として※[#「りっしんべん+易」、第3水準1−84−53]《おそ》れず、偉なる哉《かな》、偉なる哉。皇太孫|允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]《いんぶん》、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一|言《げん》や鉄の鋳られたるが如《ごと》し。衆論の糸の紛《もつ》るゝを防ぐ。これより前《さき》、太孫の儲位《ちょい》に即《つ》くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖《いえど》も、太孫の人となり仁孝|聡頴《そうえい》にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚《はなは》だ欠く。此《これ》を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其《その》詩|婉美柔弱《えんびじゅうじゃく》、豪壮|瑰偉《かいい》の処《ところ》無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句《しく》の属対《ぞくたい》をなさしめしに、大《おおい》に旨《し》に称《かな》わず、復《ふたた》び以て燕王《えんおう》棣《てい》に命ぜられけるに、燕王の語は乃《すなわ》ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌《ようぼう》偉《い》にして髭髯《しぜん》美《うる》わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]に肖《に》たること多かりしかば、太祖も此《これ》を悦《よろこ》び、人も或《あるい》は意《こころ》を寄するものありたり。此《ここ》に於《おい》て太祖|密《ひそか》に儲位《ちょい》を易《か》えんとするに意《い》有りしが、劉三吾《りゅうさんご》之《これ》を阻《はば》みたり。三吾は名は如孫《じょそん》、元《げん》の遺臣なりしが、博学にして、文を善《よ》くしたりければ、洪武十八年召されて出《い》でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時|汪叡《おうえい》、朱善《しゅぜん》と与《とも》に、世《よ》称して三|老《ろう》と為《な》す。人となり慷慨《こうが
前へ
次へ
全116ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング