い》掉《ふる》わず、然《しか》して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則《すなわ》ち其の怨《うらみ》を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則《すなわ》ち険《けん》を恃《たの》みて衡《こう》を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚《はなはだ》しければ則ち間《かん》に縁《よ》りて而して起《た》たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景《こうけい》皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗《どうそう》父兄弟《ふけいてい》子孫《しそん》なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫《しんしそん》なり。然るに世を易《か》うるの後は迭《たがい》に兵を擁して、以て皇帝を危《あやう》くせり。昔は賈誼《かぎ》漢の文帝に勧めて、禍を未萌《みぼう》に防ぐの道を白《もう》せり。願わくば今|先《ま》ず諸王の都邑《とゆう》の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里《きょうり》を限りたまえと。居升《きょしょう》の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正《まさ》に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中《ごくちゅう》に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験《しるし》ありて、漢の七国の喩《たとえ》、眼《ま》のあたりの事となれるぞ是非無き。
 七国の事、七国の事、嗚呼《ああ》是れ何ぞ明室《みんしつ》と因縁の深きや。葉居升《しょうきょしょう》の上書の出《い》ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂《たいほんどう》というを建てたまい、古今《ここん》の図書を充《み》て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注《ききょちゅう》の魏観《ぎかん》字《あざな》は※[#「木+巳」、256−9]山《きざん》というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書《かんじょ》の七図漢に叛《そむ》ける事を講じ聞《きか》せたりと答え白《もう》す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰《いずれ》に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対《こた》う。時に太祖|肯《がえん》ぜずして、否《あらず》、其《そ》は講官の偏説なり。景帝《けいてい》太子たりし時、博局《はくき
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