。且つ元《げん》の裔《えい》の猶《なお》存して、時に塞下《さいか》に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中《こくちゅう》に専制し、三護衛の重兵《ちょうへい》を擁するを得せしめ、将を遣《や》りて諸路の兵を徴《め》すにも、必ず親王に関白して乃《すなわ》ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦《また》大なりというべし。太祖の意に謂《おも》えらく、是《かく》の如《ごと》くなれば、本支《ほんし》相《あい》幇《たす》けて、朱氏《しゅし》永く昌《さか》え、威権|下《しも》に移る無く、傾覆の患《うれい》も生ずるに地無からんと。太祖の深智《しんち》達識《たっしき》は、まことに能《よ》く前代の覆轍《ふくてつ》に鑑《かんが》みて、後世に長計を貽《のこ》さんとせり。されども人智は限《かぎり》有り、天意は測り難し、豈《あに》図《はか》らんや、太祖が熟慮遠謀して施為《しい》せるところの者は、即《すなわ》ち是れ孝陵《こうりょう》の土|未《いま》だ乾かずして、北平《ほくへい》の塵《ちり》既に起り、矢石《しせき》京城《けいじょう》に雨注《うちゅう》して、皇帝|遐陬《かすう》に雲遊するの因とならんとは。
太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙《つと》に之《これ》を論じて、然《しか》る可《べ》からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其《その》歳《とし》閏《うるう》九月、たま/\天文《てんもん》の変ありて、詔《みことのり》を下し直言《ちょくげん》を求められにければ、山西《さんせい》の葉居升《しょうきょしょう》というもの、上書して第一には分封の太《はなは》だ侈《おご》れること、第二には刑を用いる太《はなは》だ繁《しげ》きこと、第三には治《ち》を求むる太《はなは》だ速やかなることの三条を言えり。其の分封|太侈《たいし》を論ずるに曰《いわ》く、都城|百雉《ひゃくち》を過ぐるは国の害なりとは、伝《でん》の文にも見えたるを、国家今や秦《しん》晋《しん》燕《えん》斉《せい》梁《りょう》楚《そ》呉《ご》※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]《びん》の諸国、各|其《その》地《ち》を尽して之《これ》を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜《つ》ぎ、之に賜《たま》うに甲兵衛士の盛《さかん》なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世《すうせい》の後は尾大《びだ
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