天賦《てんぷ》も厚く、庭訓《ていきん》も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸《そうぼう》烱々《けいけい》として、日に書を読むこと寸に盈《み》ち、文を為《な》すに雄邁醇深《ゆうまいじゅんしん》なりしかば、郷人呼んで小韓子《しょうかんし》となせりという。其の聰慧《そうけい》なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉《ことごと》く称して太史公《たいしこう》となして、姓氏を以てせず。濂|字《あざな》は、景濂《けいれん》、其《その》先《せん》金華《きんか》の潜渓《せんけい》の人なるを以て潜渓《せんけい》と号《ごう》す。太祖|濂《れん》を廷《てい》に誉《ほ》めて曰く、宋景濂|朕《ちん》に事《つか》うること十九年、未《いま》だ嘗《かつ》て一|言《げん》の偽《いつわり》あらず、一人《いちにん》の短《たん》を誚《そし》らず、始終|二《に》無し、たゞに君子のみならず、抑《そもそも》賢と謂《い》う可しと。太祖の濂を視《み》ること是《かく》の如し。濂の人品|想《おも》う可き也《なり》。孝孺|洪武《こうぶ》の九年を以て、濂に見《まみ》えて弟子《ていし》となる。濂時に年六十八、孝孺を得て大《おおい》に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還《かえ》るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生|希直《きちょく》を得たり、其の人となりや凝重《ぎょうちょう》にして物に遷《うつ》らず、穎鋭《えいえい》にして以て諸《これ》を理に燭《しょく》す、間《まま》発《はっ》[#「間《まま》発《はっ》」は底本では「発《まま》間《はっ》」]して文を為《な》す、水の湧《わ》いて山の出《い》づるが如し、喧啾《けんしゅう》たる百鳥の中《うち》、此の孤鳳皇《こほうおう》を見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重《ぎょうちょう》穎鋭《えいえい》の二句、老先生|眼裏《がんり》の好学生を写し出《いだ》し来《きた》って神《しん》有り。此の孤鳳皇《こほうおう》を見るというに至っては、推重《すいちょう》も亦《また》至れり。詩十四章、其二に曰く、

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念《おも》ふ 子《し》が 初めて来りし時、
才思 繭糸《けんし》の若《ごと》し。
之を抽《ひ》いて 已《すで》に緒《いとぐち》を見る、
染めて就《な》せ 五色《ごしき》の衣《い》。
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其九に曰
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