いか》を体《たい》に被《こうむ》らせ、鉄鈕《てっちゅう》もて足を繋《つな》ぎ置きけるに、俄《にわか》にして皆おのずから解脱《げだつ》し、竟《つい》に遯《のが》れ去って終るところを知らず。三司郡県将校《さんしぐんけんしょうこう》等《ら》、皆|寇《あだ》を失うを以て誅《ちゅう》せられぬ。賽児は如何《いかが》しけん其後|踪跡《そうせき》杳《よう》として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京《ほくけい》山東《さんとう》の尼姑《にこ》は尽《ことごと》く逮捕して京に上せ、厳重に勘問《かんもん》し、終《つい》に天下の尼姑という尼姑を逮《とら》うるに至りしが、得る能《あた》わずして止《や》み、遂に後の史家をして、妖耶《ようか》人耶《ひとか》、吾《われ》之《これ》を知らず、と云《い》わしむるに至れり。
 世の伝うるところの賽児の事既に甚《はなは》だ奇、修飾を仮《か》らずして、一部|稗史《はいし》たり。女仙外史の作者の藉《か》りて以《もっ》て筆墨を鼓《こ》するも亦《また》宜《むべ》なり。然《しか》れども賽児の徒、初《はじめ》より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐《かぎゃく》するところとなって而《しこう》して後爆裂|迸発《へいはつ》して※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索《もと》むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒|窘窮《きんきゅう》して戈《ほこ》を執《と》って立つに及び、或《あるい》は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其《その》実《じつ》を知るを得ん。永楽|簒奪《さんだつ》して功を成す、而《しか》も聡明《そうめい》剛毅《ごうき》、政《まつりごと》を為《な》す甚だ精、補佐《ほさ》また賢良多し。こゝを以て賽児の徒|忽《たちまち》にして跡を潜むと雖《いえど》も、若《も》し秦末《しんまつ》漢季《かんき》の如《ごと》きの世に出《い》でしめば、陳渉《ちんしょう》張角《ちょうかく》、終《つい》に天下を動かすの事を為《な》すに至りたるやも知る可《べ》からず。嗚呼《ああ》賽児も亦|奇女子《きじょし》なるかな。而して此《この》奇女子を藉《か》りて建文に与《くみ》し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其《そ》の奇を求めずして而しておのずから然《しか》るあらんのみ。然りと雖も予《よ》猶《なお》謂《おも》えらく、
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