来るのです。手早く例を申しませうならば、同じ人でも酒に酔へば、其酔はぬ時とは人相は相違致します。酔うても骨格は変らぬが、一時間か二時間の事で気色は変つて終ひます。酔うて宜しい相になる人も有りますが、十の九までは酔うた相は宜しくありません。即ち悪変するのです。心が其舎を守らないで浮動泛濫する相になりますから、其相は過失に近づき易い相になるのであります。此道理で悪企《わるだくみ》を始めれば悪い相になります、善行善意を心掛けると善い相になります。されば仏経には、布施は美の原《もと》であるといふやうに説いてあります。仁心が即ち布施の根本でありますが、仁心を始終抱いて居ますれば、自然に其の香が露はれて来まして美しくなる道理で有ります。斉の賢人の管仲の書に、悪女怨気を盛るといふ語が有りまするが、醜婦が怨みの心を抱いた人相などは有り難くない者の頂上で、愈※[#二の字点、1−2−22]悪い相になりませうが、いくら悪女でも仁心を抱いて居れば必ず見づらいものでは有りませぬ。是故《このゆゑ》に相は心を追うて変ずるもので有りまして、心掛次第行為次第で相貌は変じ、従つて運命も変ずるものであります。
かやうな訳で、運命は全く前定して居るものとすることは虚言《うそ》であります、又全く前定して居ないと申すのも虚言であります。一半は前定して居ると申して宜しい、然し一半は心掛次第行為次第で善くもなり悪くもなると申して宜しい。天然自然に定まつて居るものを先天的運命と申しますならば、当人の心掛や行為より生ずるのを後天的運命と申しませう。自己の修治によつて後天的運命を開拓して、或は先天的運命を善きが上にも善くし、或は先天的運命の悪いのをも善くして行くのが、真の立派な人と申しますので、歴史の上に光輝を残して居る人の如きは、大抵後天的運命を開拓した人なのであります。徒に運命を論ずるが如きは聖賢と雖も御遠慮なさることであります。まして不学凡才の身を以て運命を論じたり、運命を測知しようとするが如きは、蜉蝣といふ虫が大きな樹を撼《うご》かさうとするに類したもので、甚だ詰らぬことであります。されば「如何にあるべきか」を考へるより「如何に為すべきか」を考へる方が、吾人に取つて賢くも有り正しくも有ることであるといふ言は、真実に吾人に忠実な教であります。
底本:「日本の名随筆96 運」作品社
1990(平成2)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第三〇巻(二刷)」岩波書店
1979(昭和54)年7月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング