はない。が、女の力だ。あなたの情《なさけ》だ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちに留《や》めさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、手筈《てはず》を違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。――実は小松からここに流れる桟川《かけはしがわ》で以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、弾丸《たま》の響《ひびき》と一所に姿が横に消えると、颯《さっ》と血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、悚然《ぞっ》として震え上った。――しかるに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を強請《ねだ》ったような料簡《りょうけん》ではありません。真人間が、真面目《まじめ》に、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。――私は孤児《みなしご》だが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位牌《いはい》を、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、大《おおき》な革鞄《かばん》の中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。」
と言った。面《おもて》が白蝋《はくろう》のように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫毛《まつげ》のまたたくとともに、床《とこ》に置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。
「あら! 私……」
この、もの淑《しずか》なお澄が、慌《あわただ》しく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段《はしごだん》を踏立てて、かかる夜陰を憚《はばか》らぬ、音が静寂間《しじま》に湧上《わきあが》った。
「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」
と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いた件《くだん》の幇間と頷《うなず》かれる。白い呼吸《いき》もほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。
「や、お澄――ここか、座敷は。」
扉《ドア》を開けた出会頭《であいがしら》に、爺やが傍《そば》に、供が続いて突立《つった》った忘八《くつわ》の紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、気疾《きばや》に頸《くび》からさきへ突込《つっこ》む目に、何と、閨《ねや》の枕に小ざかもり、媚薬《びやく》を髣髴《ほうふつ》とさせた道具が並んで、生白《なまじろ》けた雪次郎が、しまの広袖《どてら》で、微酔《ほろよい》で、夜具に凭《もた》れていたろうではないか。
正《しょう》の肌身はそこで藻抜けて、ここに空蝉《うつせみ》の立つようなお澄は、呼吸《いき》も黒くなる、相撲取ほど肥った紳士の、臘虎襟《らっこえり》の大外套《おおがいとう》の厚い煙に包まれた。
「いつもの上段の室《ま》でございますことよ。」
と、さすが客商売の、透かさず機嫌を取って、扉《ドア》隣へ導くと、紳士の開閉《あけたて》の乱暴さは、ドドンドシン、続けさまに扉が鳴った。
五
「旦那《だんな》は――ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし御口中《ごこうちゅう》ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」
階子段《はしごだん》に足踏《あしぶみ》して、
「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、深夜《よなか》の鷭だよ、トンと打《ぶ》つけてトントントンとサ、おっとそいつは水鶏《くいな》だ、水鶏だ、トントントトン。」と下りて行《ゆ》く。
あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど寂寞《ひっそり》した。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。
「黙れ!」
と梁《はり》から天井へ、つつぬけにドス声で、
「分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は木片《こっぱ》でもない。――俺が汝等《うぬら》の手で面《つら》へ溝泥《どぶどろ》を塗られたのは夢じゃないぞ。この赫《かッ》と開けた大きな目を見ろい。――よくも汝《うぬ》、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎に
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