て来たのを、ここの火鉢と、もう一つ。……段の上り口の傍《わき》に、水屋のような三畳があって、瓶掛《びんかけ》、茶道具の類が置いてある。そこの火鉢とへ、取分けた。それから隣座敷へ運ぶのだそうで、床の間の壁裏が、その隣座敷。――「旦那様の前ですけど、この二室《ふたま》が取って置きの上等」で、電報の客というのが、追ってそこへ通るのだそうである。――
「まあお一杯《ひとつ》。……お銚子が冷めますから、ここでお燗《かん》を。ぶしつけですけれど、途中が遠うございますから、おかわりの分も、」と銚子を二本。行届いた小取まわしで、大びけすぎの小酒《こざか》もり。北の海なる海鳴《うみなり》の鐘に似て凍る時、音に聞く……安宅《あたか》の関は、この辺《あたり》から海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県|能美郡《のみごおり》片山津の、直侍《なおざむらい》とは、こんなものかと、客は広袖《どてら》の襟を撫《な》でて、胡坐《あぐら》で納まったものであった。
「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で隣座敷《となり》へ行ってしまわれるんだと思うと、情《なさけ》ない気がするね。」
「いいえ。――まあ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります。」
「何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。」
「まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。――それに、手順で私が承りましたばかりですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。唯今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟へ水鳥を撃ちに。」
「ああ、銃猟に――鴫《しぎ》かい、鴨《かも》かい。」
「はあ、鴫も鴨も居ますんですが、おもに鷭《ばん》をお撃ちになります。――この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、一百《いっそく》二三十も取れましてね、猟袋に一杯、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽が上《あが》りません、霜のしらしらあけが一番よく取れますって、それで、いま時分お着《つき》になります。」
「どこから来るんだね、遠方ッて。」
「名古屋の方でございますの。おともの人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさる中《うち》に、馴《な》れました船頭が参りますと、小船二|艘《そう》でお出かけなさるんでございますわ。」
「それは……対手《あいて》は大紳士だ。」と客は歎息して怯《おび》えたように言った。
「ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。」
「貸座敷――女郎屋《じょろや》の亭主かい。おともはざっと幇間《たいこもち》だな。」
「あ、当りました、旦那。」
と言ったが、軽く膝で手を拍《う》って、
「ほんに、辻占《つじうら》がよくって、猟のお客様はお喜びでございましょう。」
「お喜びかね。ふう成程――ああ大した勢いだね。おお、この静寂《しずか》な霜の湖を船で乱して、谺《こだま》が白山《はくさん》へドーンと響くと、寝ぬくまった目を覚して、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽に鏤《ちりば》めようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりとはまって、水しぶきの中を、船へ倒れると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな。」
お澄は白い指を扱《しご》きつつ、うっかり聞いて顔を見た。
「――お澄さん、私は折入って姐《ねえ》さんにお願いが一つある。」
客は膝をきめて居直ったのである。
四
渠《かれ》は稲田《いなだ》雪次郎と言う――宿帳の上を更《あらた》めて名を言った。画家である。いくたびも生死《しょうし》の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上野の美術展覧会に入選した。
構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。――
「鷭は一生を通じての私のために恩人なんです。生命《いのち》の親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一類が、夫も妻も娘も忰《せがれ》も、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲を食《くら》って、一時《いっとき》に、一百《いっそく》二三十ずつ、袋へ七つも詰込まれるんでは遣切《やりき》れない。――深更《よふけ》に無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っている処へ、こんな馬鹿な、無法な、没常識な、お願いと言っちゃあないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭|撃《うち》を留《や》めさしてはもらえないだろうか。……男だてなら、あの木曾川の、で、留《と》めて見ると言ったって、水の流《ながれ》は留められるもので
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