鷭狩
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)初冬《はつふゆ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半月館|弓野屋《ゆんのや》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]
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       一

 初冬《はつふゆ》の夜更《よふけ》である。
 片山津《かたやまづ》(加賀)の温泉宿、半月館|弓野屋《ゆんのや》の二階――だけれど、広い階子段《はしごだん》が途中で一段大きく蜿《うね》ってS形に昇るので三階ぐらいに高い――取着《とッつき》の扉《ドア》を開けて、一人旅の、三十ばかりの客が、寝衣《ねまき》で薄ぼんやりと顕《あらわ》れた。
 この、半ば西洋づくりの構《かまえ》は、日本間が二室《ふたま》で、四角な縁が、名にしおうここの名所、三湖の雄なる柴山潟《しばやまがた》を見晴しの露台の誂《あつらえ》ゆえ、硝子戸《がらすど》と二重を隔ててはいるけれど、霜置く月の冷たさが、渺々《びょうびょう》たる水面から、自《おのず》から沁徹《しみとお》る。……
 いま偶《ふ》と寝覚の枕を上げると、電燈は薄暗し、硝子戸を貫いて、障子にその水の影さえ映るばかりに見えたので、
「おお、寒い。」
 頸《えり》から寒くなって起きて出た。が、寝ぬくもりの冷めないうち、早く厠《かわや》へと思う急心《せきごころ》に、向う見ずに扉《ドア》を押した。
 押して出ると、不意に凄《すご》い音で刎返《はねかえ》した。ドーンと扉の閉るのが、広い旅館のがらんとした大天井から地の底まで、もっての外に響いたのである。
 一つ、大きなもの音のしたあとは、目の前の階子段も深い穴のように見えて、白い灯も霜を敷いた状《さま》に床に寂しい。木目の節の、点々《ぼつぼつ》黒いのも鼠の足跡かと思われる。
 まことに、この大旅館はがらんとしていた。――宵に受持の女中に聞くと、ひきつづき二十日《はつか》余りの間団体観光の客が立てつけて毎日百人近く込合ったそうである。そこへ女中がやっと四人ぐらいだから、もし昨日《きのう》にもおいでだと、どんなにお気の毒であったか知れない。すっかり潮のように引いたあとで、今日はまた不思議にお客が少く、此室《ここ》に貴方《あなた》と、離室《はなれ》の茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から――と言った癖に……客が膳《ぜん》の上の猪口《ちょく》をちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう、大掃除の後の骨休め、という処だ。ここは構わないで、湯にでも入ったら可《よ》かろうと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、言《ことば》に随《つ》いて、ではそうさして頂きます、後生ですわ、と膠《にべ》もなく引退《ひきさが》った。畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを呆気《あっけ》に取られた。
 ……思えば、それも便宜《たより》ない。……
 さて下りる階子段は、一曲り曲る処で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下を覗《のぞ》くとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、隙間《すきま》とてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと這入《はい》っては、そッと爪尖《つまさき》を嘗《な》めるので、変にスリッパが辷《すべ》りそうで、足許《あしもと》が覚束《おぼつか》ない。
 渠《かれ》は壁に掴《つかま》った。
 掌《てのひら》がその壁の面に触れると、遠くで湯の雫《しずく》の音がした。
 聞き澄《すま》すと、潟の水の、汀《みぎわ》の蘆間《あしま》をひたひたと音訪《おとず》れる気勢《けはい》もする。……風は死んだのに、遠くなり、近くなり、汽車が谺《こだま》するように、ゴーと響くのは海鳴《うみなり》である。
 更に遠く来た旅を知りつつ、沈むばかりに階段を下切《おりき》った。
 どこにも座敷がない、あっても泊客《とまりきゃく》のないことを知った長廊下の、底冷《そこびえ》のする板敷を、影の※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》うように、我ながら朦朧《もうろう》として辿《たど》ると……
「ああ、この音だった。」
 汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた。
 機械口が緩《ゆる》んだままで、水が点滴《したた》っているらしい。
 その袖壁の折角《おれかど》から、何心なく中を覗くと、
「あッ。」と、思わず声を立てて、ばたばたと後《あと》へ退《さが》った。
 雪のような女が居て、姿見に真蒼《まっさお》な顔が映った。
 温泉《いでゆ》の宿の真夜中である。

       二

 客は、なまじ自分の他《ほか》に、離室《はなれ》
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