て、袂《たもと》の尖《さき》でやっと繋《つな》がる、ぐたりと下へ襲《かさ》ねた、どくどく重そうな白絣《しろがすり》の浴衣の溢出《はみだ》す、汚れて萎《な》えた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突込《つっこ》んだのは、賽銭《さいせん》を探ったらしい。
が、チヤリリともせぬ。
時に、本堂へむくりと立った、大きな頭の真黒《まっくろ》なのが、海坊主のように映って、上から三宝へ伸懸《のしかか》ると、手が燈明《とうみょう》に映って、新しい蝋燭を取ろうとする。
一ツ狭い間を措《お》いた、障子の裡《うち》には、燈《ひ》があかあかとして、二三人居残った講中らしい影が映《さ》したが、御本尊の前にはこの雇和尚《やといおしょう》ただ一人。もう腰衣《こしごろも》ばかり袈裟《けさ》もはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団扇《うちわ》にしては物寂しい、大《おおき》な蛾《ひとりむし》の音を立てて、沖の暗夜《やみ》の不知火《しらぬい》が、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い掌《てのひら》で煽《あお》ぎ煽《あお》ぎ、二三|挺《ちょう》順に消していたのである。
「ええ、」
とその男が圧《おさ》えて、低い声で縋《すが》るように言った。
「済みませんがね、もし、私《てまえ》持合せがございません。ええ、新しいお蝋燭は御遠慮を申上げます。ええ。」
「はあ。」と云う、和尚が声の幅を押被《おっかぶ》せるばかり。鼻も大きければ、口も大きい、額の黒子《ほくろ》も大入道、眉をもじゃもじゃと動かして聞返す。
これがために、窶《やつ》れた男は言渋って、
「で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点《とも》し下さいませんように。」
「さようか。」
と、も一つ押被せたが、そのまま、遣放《やりはな》しにも出来ないのは、彼がまだ何か言いたそうに、もじもじとしたからで。
和尚はまじりと見ていたが、果《はて》しがないから、大《おおき》な耳を引傾《ひっかた》げざまに、ト掌《てのひら》を当てて、燈明の前へ、その黒子《ほくろ》を明らさまに出した体《てい》は、耳が遠いからという仕方に似たが、この際、判然《はっきり》分るように物を言え、と催促をしたのである。
「ええ。」
とまた云う、男は口を利くのも呼吸《いき》だわしそうに肩を揺《ゆす》る、……
「就きましては、真《まこと》に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。」
「蝋燭は分ったであす。」
小鼻に皺《しわ》を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、
「御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。」
「いいえ、」
「はい、」と、もどかしそうな鼻息を吹く。
「何でございます、その、さような次第ではございません。それでございますから、申しにくいのでございますが、思召《おぼしめし》を持ちまして、お蝋を一挺、お貸し下さる事にはなりますまいでございましょうか。」
「じゃから、じゃから御随意であす。じゃが時刻も遅いでな、……見なさる通り、燈明をしめしておるが、それともに点《つ》けるであすか。」
「それがでございます。」
と疲れた状《さま》にぐたりと賽銭箱の縁《へり》に両手を支《つ》いて、両の耳に、すくすくと毛のかぶさった、小さな頭をがっくりと下げながら、
「一挺お貸し下さいまし、……と申しますのが、御神前に備えるではございません。私《てまえ》、頂いて帰りたいのでございます。」
「お蝋を持って行くであすか。ふうむ、」と大《おおき》く鼻を鳴《なら》す。
「それも、一度お供えになりました、燃えさしが願いたいのでございまして。」
いや、時節がら物騒千万。
三
「待て、待て、ちょっと……」
往来|留《どめ》の提灯《ちょうちん》はもう消したが、一筋、両側の家の戸を鎖《さ》した、寂《さみ》しい町の真中《まんなか》に、六道の辻の通《みち》しるべに、鬼が植えた鉄棒《かなぼう》のごとく標《しるし》の残った、縁日果てた番町|通《どおり》。なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬被《ほおかぶり》した半纏着《はんてんぎ》が一人、右側の廂《ひさし》が下った小家の軒下暗い中から、ひたひたと草履で出た。
声も立てず往来留のその杙《くい》に並んで、ひしと足を留めたのは、あの、古井戸の陰から、よろりと出て、和尚に蝋燭の燃えさしをねだった、なぜ、その手水鉢の柄杓を盗まなかったろうと思う、船幽霊《ふなゆうれい》のような、蒼《あお》しょびれた男である。
半纏着は、肩を斜《はす》っかいに、つかつかと寄って、
「待てったら、待て。」とドス声を渋くかすめて、
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング