菎蒻本
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)如月《きさらぎ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)冬|籠《ごも》る

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》
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       一

 如月《きさらぎ》のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒《ふきすさ》んで、戸障子を煽《あお》つ、柱を揺《ゆす》ぶる、屋根を鳴らす、物干棹《ものほしざお》を刎飛《はねと》ばす――荒磯《あらいそ》や、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、祟《たた》りの吹雪に戸を鎖《さ》して、冬|籠《ごも》る頃ながら――東京もまた砂|埃《ほこり》の戦《たたかい》を避けて、家ごとに穴籠りする思い。
 意気な小家《こいえ》に流連《いつづけ》の朝の手水《ちょうず》にも、砂利を含んで、じりりとする。
 羽目も天井も乾いて燥《はしゃ》いで、煤《すす》の引火奴《ほくち》に礫《つぶて》が飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火沙汰《ひざた》で、時の鐘ほどジャンジャンと打《ぶ》つける、そこもかしこも、放火《つけび》だ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。
 三月の中の七日、珍しく朝凪《あさな》ぎして、そのまま穏《おだや》かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気《あまげ》を持ったのさえ、頃日《このごろ》の埃には、もの和《やわら》かに視《なが》められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々《おぼろおぼろ》の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。
 この七の日は、番町の大銀杏《おおいちょう》とともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生暖《なまあったか》い風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸潰《まるつぶ》れとなった。……以来、打続いた風ッ吹きで、銀杏の梢《こずえ》も大童《おおわらわ》に乱れて蓬々《おどろおどろ》しかった、その今夜は、霞に夕化粧で薄あかりにすらりと立つ。
 堂とは一町ばかり間《あわい》をおいた、この樹の許《もと》から、桜草、菫《すみれ》、山吹、植木屋の路《みち》を開き初《そ》めて、長閑《のどか》に春めく蝶々|簪《かんざし》、娘たちの宵出《よいで》の姿。酸漿屋《ほおずきや》の店から灯が点《とも》れて、絵草紙屋、小間物|店《みせ》の、夜の錦《にしき》に、紅《くれない》を織り込む賑《にぎわい》となった。
 が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見|櫓《やぐら》が遠霞《とおがすみ》で露店の灯の映るのも、花の使《つかい》と視《なが》めあえず、遠火で焙《あぶ》らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂《みどう》の前も寂寞《ひっそり》としたのである。
 提灯《ちょうちん》もやがて消えた。
 ひたひたと木の葉から滴る音して、汲《くみ》かえし、掬《むす》びかえた、柄杓《ひしゃく》の柄を漏る雫《しずく》が聞える。その暗くなった手水鉢の背後《うしろ》に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦《おんな》が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細《しさい》はない。……参詣《さんけい》の散った夜更《よふけ》には、人目を避けて、素膚《すはだ》に水垢離《みずごり》を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。
 今境内は人気勢《ひとけはい》もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体《てい》に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭《ろうそく》の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明《あかり》に幽《かすか》に映った。
 びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足《はだし》か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋《すが》って、そこで息を吐《つ》く、肩を一つ揺《ゆす》ったが、敷石の上へ、蹌踉々々《よろよろ》。
 口を開《あ》いて、唇赤く、パッと蝋《ろう》の火を吸った形の、正面の鰐口《わにぐち》の下へ、髯《ひげ》のもじゃもじゃと生えた蒼《あお》い顔を出したのは、頬のこけた男であった。
 内へ引く、勢の無い咳《せき》をすると、眉を顰《ひそ》めたが、窪《くぼ》んだ目で、御堂の裡《うち》を俯向《うつむ》いて、覗《のぞ》いて、
「お蝋を。」

       二

 そう云って、綻《ほころ》び
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