らりと立つ。
 堂とは一町ばかり間《あわい》をおいた、この樹の許《もと》から、桜草、菫《すみれ》、山吹、植木屋の路《みち》を開き初《そ》めて、長閑《のどか》に春めく蝶々|簪《かんざし》、娘たちの宵出《よいで》の姿。酸漿屋《ほおずきや》の店から灯が点《とも》れて、絵草紙屋、小間物|店《みせ》の、夜の錦《にしき》に、紅《くれない》を織り込む賑《にぎわい》となった。
 が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見|櫓《やぐら》が遠霞《とおがすみ》で露店の灯の映るのも、花の使《つかい》と視《なが》めあえず、遠火で焙《あぶ》らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂《みどう》の前も寂寞《ひっそり》としたのである。
 提灯《ちょうちん》もやがて消えた。
 ひたひたと木の葉から滴る音して、汲《くみ》かえし、掬《むす》びかえた、柄杓《ひしゃく》の柄を漏る雫《しずく》が聞える。その暗くなった手水鉢の背後《うしろ》に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦《おんな》が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細《しさい》はない。……参詣《さんけい》の散った夜更《よふけ》には、人目を避けて、素膚《すはだ》に水垢離《みずごり》を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。
 今境内は人気勢《ひとけはい》もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体《てい》に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭《ろうそく》の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明《あかり》に幽《かすか》に映った。
 びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足《はだし》か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋《すが》って、そこで息を吐《つ》く、肩を一つ揺《ゆす》ったが、敷石の上へ、蹌踉々々《よろよろ》。
 口を開《あ》いて、唇赤く、パッと蝋《ろう》の火を吸った形の、正面の鰐口《わにぐち》の下へ、髯《ひげ》のもじゃもじゃと生えた蒼《あお》い顔を出したのは、頬のこけた男であった。
 内へ引く、勢の無い咳《せき》をすると、眉を顰《ひそ》めたが、窪《くぼ》んだ目で、御堂の裡《うち》を俯向《うつむ》いて、覗《のぞ》いて、
「お蝋を。」

       二

 そう云って、綻《ほころ》び
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