にいいましたとさ。
 ――あれあれ見たか、あれ見たか――、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかですもの。」
「一体また二つの蜻蛉がなぜ変だろう。見聞《みきき》が狭い、知らないんだよ。土地の人は――そういう私だって、近頃まで、つい気がつかずに居たんだがね。
 手紙のついでで知っておいでだろうが、私の住んでいる処と、京橋の築地までは、そうだね、ここから、ずっと見て、向うの海まではあるだろう。今度、当地《こちら》へ来がけに、歯が疼《いた》んで、馴染《なじみ》の歯科医《はいしゃ》へ行ったとお思い。その築地は、というと、用たしで、歯科医は大廻りに赤坂なんだよ。途中、四谷新宿へ突抜けの麹町《こうじまち》の大通りから三宅坂《みやけざか》、日比谷、……銀座へ出る……歌舞伎座の前を真直《まっすぐ》に、目的《めあて》の明石町《あかしちょう》までと饒舌《しゃべ》ってもいい加減の間、町|充満《いっぱい》、屋根一面、上下《うえした》、左右、縦も横も、微紅《うすあか》い光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れを漲《みなぎ》らして飛ぶのが、行違ったり、卍《まんじ》に舞乱れたりするんじゃあない、上へ斜《ななめ》、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、千住《せんじゅ》、それから先はどこまでだか、ほとんど想像にも及びません。――明石町は昼の不知火《しらぬい》、隅田川の水の影が映ったよ。
 で、急いで明石町から引返《ひっかえ》して、赤坂の方へ向うと、また、おなじように飛んでいる。群れて行《ゆ》く。歯科医《はいしゃ》で、椅子に掛けた。窓の外を、この時は、幾分か、その数はまばらに見えたが、それでも、千や二千じゃない、二階の窓をすれすれの処に向う家の廂《ひさし》見当、ちょうど電信、電話線の高さを飛ぶ。それより、高くもない。ずっと低くもない。どれも、おなじくらいな空を通るんだがね、計り知られないその大群は、層を厚く、密度を濃《こまや》かにしたのじゃなくって、薄く透通る。その一つ一つの薄い羽のようにさ。
 何の事はない、見た処、東京の低い空を、淡紅《とき》一面の紗《しゃ》を張って、銀の霞に包んだようだ。聳立《そびえた》った、洋館、高い林、森なぞは、さながら、夕日の紅《べに》を巻いた白浪の上の巌《いわ》の島と云った態《かたち》だ。
 つい口へ出た。(蜻蛉が大層飛んでいますね。)歯医師《はいしゃ》が(はあ、早朝からですよ。)と云ったがね。その時は四時過ぎです。
 帰途《かえり》に、赤坂見附で、同じことを、運転手に云うと、(今は少くなりました。こんなもんじゃありません。今朝六時頃、この見附を、客人で通りました時は、上下、左右すれ違うとサワサワと音がします。青空、青山、正面の雪の富士山の雲の下まで裾野を蔽《おお》うといいます紫雲英《げんげ》のように、いっぱいです。赤蜻蛉に乗せられて、車が浮いて困ってしまいました。こんな経験ははじめてです。)と更《あらた》めて吃驚《びっくり》したように言うんだね。私も、その日ほど夥《おびただ》しいのは始めてだったけれど、赤蜻蛉の群の一日都会に漲《みなぎ》るのは、秋、おなじ頃、ほとんど毎年と云ってもいい。子供のうちから大好きなんだけれど、これに気のついたのは、――うっかりじゃないか――この八九年以来なんだが、月はかわりません。きっと十月、中の十日から二十日《はつか》の間、三年つづいて十七日というのを、手帳につけて覚えています。季節、天気というものは、そんなに模様の変らないものと見えて、いつの年も秋の長雨、しけつづき、また大あらしのあった翌朝《あくるあさ》、からりと、嘘のように青空になると、待ってたように、しずめたり浮いたり、風に、すらすらすらすらと、薄い紅《あか》い霧をほぐして通る。
 ――この辺は、どうだろう。」
「え。」
 話にききとれていたせいではあるまい、お米の顔は緋葉《もみじ》の蔭にほんのりしていた。
「……もう晩《おそ》いんでしょう、今日は一つも見えませんわ。前の月の命日に参詣《おまいり》をしました時、山門を出て……あら、このいい日和にむら雨かと思いました。赤蜻蛉の羽がまるで銀の雨の降るように見えたんです。」
「一ツずつかね。」
「ひとツずつ?」
「ニツずつではなかったかい。」
「さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。」
「気がつくまい、そうだろう。それを言いたかったんだ、いまの蜻蛉の群の話は。それがね、残らず、二つだよ、比翼なんだよ。その刺繍《ししゅう》の姿と、おなじに、これを見て土地の人は、初路さんを殺したように、どんな唄を唱うだろう。
 みだらだの、風儀を乱すの、恥を曝《さら》すのといって、どうする気だろう。浪で洗えますか、火で焼けますか、
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