すから、冷かしはしませんから、よく、お拝みなさいましよね。
 ――(糸塚)さん。」
「糸塚……初路さんか。糸塚は姓なのかね。」
「いいえ、あら、そう……おじさんは、ご存じないわね。
 ――糸塚さん、糸巻塚ともいうんですって。
 この谷を一つ隔てた、向うの山の中途に、鬼子母神《きしもじん》様のお寺がありましょう。」
「ああ、柘榴寺《ざくろでら》――真成寺《しんじょうじ》。」
「ちょっとごめんなさい。私も端の方へ、少し休んで。……いいえ、構うもんですか。落葉といっても錦《にしき》のようで、勿体ないほどですわ。あの柘榴の花の散った中へ、鬼子母神様の雲だといって、草履を脱いで坐ったのも、つい近頃のようですもの。お母さんにつれられて。白い雲、青い雲、紫の雲は何様でしょう。鬼子母神様は紅《あか》い雲のように思われますね。」
 墓所は直《じき》近いのに、面影を遥《はる》かに偲《しの》んで、母親を想うか、お米は恍惚《うっとり》して云った。
 ――聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州|逗子《ずし》に過ごした時、新婚の渠《かれ》の妻女の、病厄のためにまさに絶えなんとした生命を、医療もそれよ。まさしく観世音の大慈の利験《りやく》に生きたことを忘れない。南海霊山の岩殿寺《いわとのじ》、奥の御堂《みどう》の裏山に、一処《ひとところ》咲満ちて、春たけなわな白光《びゃっこう》に、奇《く》しき薫《かおり》の漲《みなぎ》った紫の菫《すみれ》の中に、白い山兎の飛ぶのを視《み》つつ、病中の人を念じたのを、この時まざまざと、目前の雲に視て、輝く霊巌《れいげん》の台に対し、さしうつむくまで、心衷《しんちゅう》に、恭礼黙拝したのである。――

 お米の横顔さえ、※[#くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《ろう》たけて、
「柘榴寺、ね、おじさん、あすこの寺内に、初代元祖、友禅の墓がありましょう。一頃は訪《と》う人どころか、苔《こけ》の下に土も枯れ、水も涸《かわ》いていたんですが、近年《ちかごろ》他国の人たちが方々から尋ねて来て、世評が高いもんですから、記念碑が新しく建ちましてね、名所のようになりました。それでね、ここのお寺でも、新規に、初路さんの、やっぱり記念碑を建てる事になったんです。」
「ははあ、和尚さん、娑婆気《しゃばっけ》だな、人寄せに、黒枠で……と身を投げた人だから、薄彩色《うすざいしき》水絵具の立看板。」
「黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。」
「葬った土とは別なんだね。」
「ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。」
「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」
「そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原因《もと》で、あんな事になったんですもの。糸も紅糸《べにいと》からですわ。」
「糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが原因《もと》?……」
「まあ、何にも、ご存じない。」
「怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が経《た》つと、それっきりになる事もあるからね。」
 辻町は向直っていったのである。
「蟹は甲らに似せて穴を掘る……も可訝《おかし》いかな。おなじ穴の狸……飛んでもない。一升入の瓢《ひさご》は一升だけ、何しろ、当推量も左前だ。誰もお極《きま》りの貧のくるしみからだと思っていたよ。」
 また、事実そうであった。
「まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のお邸《やしき》の女※[#くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《じょうろう》さん。」
「おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。」
「それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女※[#くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]ですが、初路さん、お妾腹《めかけばら》だったんですって。それでも一粒種、いい月日の下《もと》に、生れなすったんですけれど、廃藩以来、ほどなく、お邸は退転、御両親も皆あの世。お部屋方の遠縁へ引取られなさいましたのが、いま、お話のありました箔屋なのです。時節がら、箔屋さんも暮しが安易《らく》でないために、工場《こうば》通いをなさいました。お邸育ちのお慰みから、縮緬《ちりめん》細工もお上手だし、お針は利きます。すぐ第
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