ろで、その嬰児《あかんぼ》が、今お見受け申すお姿となったから、もうかれこれ三十年。……だもの、記憶《おぼえ》も何も朧々《おぼろおぼろ》とした中に、その悲しいうつくしい人の姿に薄明りがさして見える。遠くなったり、近くなったり、途中で消えたり、目先へ出たり――こっちも、とぼとぼと死場所を探していたんだから、どうも人目が邪魔になる。さきでも目障りになったろう。やがて夜中の三時過ぎ、天守下の坂は長いからね、坂の途中で見失ったが、見失った時の後姿を一番はっきりと覚えている。だから、その人が淵で死んだとすると、一旦《いったん》町へ下りて、もう一度、坂を引返《ひっかえ》した事になるんだね。
ただし、そういった処で、あくる朝、町内の箔屋へ引取った身投げの娘が、果して昨夜《ゆうべ》私が見た人と同じだかどうだか、実の処は分りません……それは今でも分りはしない。堀端では、前後一度だって、横顔の鼻筋だって、見えないばかりか、解りもしない。が、朝、お京さんに聞いたばかりで、すぐ、ああ、それだと思ったのも、おなじ死ぬ気の、気で感じたのであろうと思う……
と、お京さんが、むこうの後妻《うわなり》の目をそらして、格子を入った。おぶさったお前さんが、それ、今のべっかっこで、妙な顔……」
「ええ、ほほほ。」
とお米は軽く咲容《えまい》して、片袖を胸へあてる。
「お京さん、いきなり内の祖母《ばあ》さんの背中を一つトンと敲《たた》いたと思うと、鉄鍋《てつなべ》の蓋《ふた》を取って覗《のぞ》いたっけ、勢《いきおい》のよくない湯気が上る。」
お米は軽く鬢《びん》を撫《な》でた。
「ちょろちょろと燃えてる、竈《かまど》の薪木《たきぎ》、その火だがね、何だか身を投げた女《ひと》をあぶって暖めているような気がして、消えぎえにそこへ、袖褄《そでづま》を縺《もつ》れて倒れた、ぐっしょり濡れた髪と、真白な顔が見えて、まるでそれがね、向う門《かど》に立っている後妻《うわなり》に、はかない恋をせかれて、五年前に、おなじ淵に身を投げた、優しい姉さんのようにも思われた。余程どうかしていたんだね。
半壊れの車井戸が、すぐ傍《そば》で、底の方に、ばたん、と寂しい雫《しずく》の音。
ざらざらと水が響くと、
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――身投げだ――
――別嬪《べっぴん》だ――
――身投げだ――
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と
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