きうら》とも思う町を、影法師のごとくようやく人脚の繁くなるのに気を取られていた、松崎は、また目を舞台に引附けられた。
 舞台を見返す瞬間、むこうから、先刻《さっき》の編笠を被《かぶ》った鴉《からす》ような新粉細工が、ふと身を起して、うそうそと出て来るのを認めた。且つそれが、古綿のようにむくむくと、雲の白さが一団《ひとかたまり》残って、底に幽《かすか》に蒼空《あおぞら》の見える……遥《はる》かに遠い所から、たとえば、ものの一里も離れた前途《さき》から、黒雲を背後《うしろ》に曳《ひ》いて襲《おそ》い来るごとく見て取られた。
 それ、もうそこに、編笠を深く、舞台を覗《のぞ》く。
 いつの間にか帰って来て、三人に床几《しょうぎ》を貸した古女房も交って立つ。
 彼処《かしこ》に置捨てた屋台車が、主《ぬし》を追うて自ら軋《きし》るかと、響《ひびき》が地を畝《うね》って、轟々《ごろごろ》と雷《らい》の音。絵の藤も風に颯《さっ》と黒い。その幕の彼方《かなた》から、紅蓮、大紅蓮のその声、舌も赤う、ひらめくと覚えて、めらめらと饒舌《しゃべ》る。……
「まだ後が聞きとうござりますか。お稲は狂死《くるいじに》に死ぬるのじゃ。や、じゃが、家眷親属《うからやから》の余所《よそ》で見る眼《まなこ》には、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、睫毛《まつげ》を黒う塞《ふさ》いで、の、長煩らいの死ぬ身には塵《ちり》も据《すわ》らず、色が抜けるほど白いばかり。さまで痩《や》せもせず、苦患《くげん》も無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心の裡《うち》の苦痛《くるしみ》はよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。」
「そして、後は、」
 と美しい女《ひと》は、白い両手で、確《しか》と紫の襟を圧《おさ》えた。
「死骸になっての、空蝉《うつせみ》の藻脱けた膚《はだ》は、人間の手を離れて牛頭《ごず》馬頭《めず》の腕に上下から掴《つか》まれる。や、そこを見せたい。その娘《こ》の仮髪《かつら》ぢゃ、お稲の髪には念を入れた。……島田が乱れて、糸も切《きれ》もかからぬ膚を黒く輝く、吾《あ》が天女の後光のように包むを見さい。末は踵《かかと》に余って曳《ひ》くぞの。
 鼓草《たんぽぽ》の花の散るように、娘の身体《からだ》は幻に消えても、その黒髪は、金輪《こんりん》、奈落、長く深く残って朽ちぬ。百年《ももとせ》、千歳《ちとせ》、失《う》せず、枯れず、次第に伸びて艶を増す。その髪千筋一筋ずつ、獣《けもの》が食えば野の草から、鳥が啄《は》めば峰の花から、同じお稲の、同じ姿|容《かたち》となって、一人ずつ世に生れて、また同一《おなじ》年、同一《おなじ》月日に、親兄弟、家眷親属、己《おの》が身勝手な利慾《りよく》のために、恋をせかれ、情《なさけ》を破られ、縁を断《き》られて、同一《おなじ》思いで、狂死《くるいじに》するわいの。あの、厄年の十九を見され、五人、三人|一時《いっとき》に亡《う》せるじゃろうがの。死ねば思いが黒髪に残ってその一筋がまた同じ女と生れる、生きかわるわいの。死にかわるわいの。
 その誰もが皆揃うて、親兄弟を恨む、家眷親属を恨む、人を恨む、世を恨《うら》む、人間五常の道乱れて、黒白《あやめ》も分かず、日を蔽《おお》い、月を塗る……魔道の呪詛《のろい》じゃ、何と! 魔の呪詛を見せますのじゃ、そこをよう見さっしゃるが可《い》い。
 お稲の髪の、乱れて摩《なび》く処をのう。」
「死んだお稲さんの髪が乱れて……」
 と美しい女《ひと》は、衝《つ》と鬢《びん》に手を遣ったが、ほつれ毛よりも指が揺《ゆら》いで、
「そして、それからはえ?」
 と屹《きっ》と言う
「此方《こなた》、親があらば叱らさりょう。よう、それからと聞きたがるの、根問《ねど》いをするのは、愛嬌《あいきょう》が無うてようないぞ。女子《おなご》は分けて、うら問い葉問《はどい》をせぬものじゃ。」
 雲の暗さが増すと、あたりに黒く艶が映《さ》す。
 その中に、美しい女《ひと》は、声も白いまで際立って、
「いいえ、聞きたい。」

       二十三

「たって聞きたくばの、こうさしゃれ。」
 幕の蔭で、間《ま》を置いて、落着いて、
「お稲の芝居は死骸の黒髪の長いまでじゃ。ここでは知らぬによって、後は去《い》んで、二度|添《ぞい》どのに聞かっしゃれ、二度添いの女子《おなご》に聞かっしゃれ。」
「二度添とは? 何です、二度添とは。」
 扱帯《しごき》を手繰るように繰返して問返した。
「か、知らぬか、のう。二度添とはの、二度目の妻の事じゃ。男に取替えられた玩弄《おもちゃ》の女子《おなご》じゃ。古い手に摘まれた、新しい花の事いの。後妻《うわなり》じゃ、後妻《ごさい》と申しますものじゃわいのう。」
 ト一度|引《ひっ》かかったように見えたが、ちらりと筵《むしろ》の端を、雲の影に踏んで、美しい女《ひと》の雪なす足袋は、友染|凄《すご》く舞台に乗った。
 目を明《あきら》かに凝《じっ》と視《み》て、
「その後妻とは、二度添とは誰れ、そこに居る人。」と肩を斜め、手を、錆《さ》びたが楯《たて》のごとく、行燈《あんどん》に確《しか》と置く。
「おおおお、誰や知らぬ、その二度添というのはの、……お稲が望《のぞみ》が遂げなんだ、縁の切れた男に、後で枕添《まくらぞえ》となった女子《おなご》の事いの。……娑婆《しゃば》はめでたや、虫の可《い》い、その男はの、我が手で水を向けて、娘の心を誘うておいて、弓でも矢でも貫こう心はなく、先方《さき》の兄者に、ただ断り言われただけで指を銜《くわ》えて退《すさ》ったいの、その上にの。
 我勝手《われがって》や。娘がこがれ死《じに》をしたと聞けば、おのれが顔をかがみで見るまで、自惚《うぬぼ》れての。何と、早や懐中《ふところ》に抱いた気で、お稲はその身の前妻じゃ。――
 との、まだお稲が死なぬ前に、ちゃッと祝言した花嫁御寮に向うての、――お主《ぬし》は後妻じゃ、二度目ぢゃと思うておくれい、――との。何と虫が可《よ》かろうが。その芋虫にまた早や、台《うてな》も蕊《しべ》も嘗《な》められる、二度添どのもあるわいの。」
 と言うかと思う、声の下で、
「ほほほほほ」
 と口紅がこぼれたように、散って舞うよと花やかに笑った。
 ああ、膚《はだ》が透く、心が映る、美しい女《ひと》の身の震う影が隈《くま》なく衣《きぬ》の柳条《しま》に搦《から》んで揺れた。
「帰ろう、品子、何をしとる。」
 紳士はずかずかと寄って、
「詰《つま》らん、さあ、帰るんです、帰るんだ。」
 とせり着くように云ったが、身動きもしないのを見て、堪《たま》りかねた体《てい》で、ぐいと美しい女《ひと》の肩を取った。
「帰らんですか、おい、帰らんのか。」
 その手は衝《つ》と袖で払われた。
「貴方《あなた》は何です。女の身体《からだ》に、勝手に手を触って可《い》いんですか。他人の癖に、……」
「何だ、他人とは。」
 憤気《むき》になると、……
「舞台へ、靴で、誰、お前は。」
 先刻《さっき》から、ただ柳が枝垂《しだ》れたように行燈に凭《もた》れていた、黒紋着《くろもんつき》のその雪女が、りんとなって、両手で紳士の胸を圧《お》した。
 トはっとした体《てい》で、よろよろと退《しさ》ったが、腰も据らず、ひょろついて来て縋《すが》るように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。
「貴方《あなた》を、伴侶《つれ》、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」
 紳士は探険と言った。
「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」
「それはよくない。不可《いけ》ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」
「そ、そんなら、妻《さい》を――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出《ひっぱりだ》して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」

       二十四

「いいえ、御心配には及びません。」
 松崎は先んじられた……そして美しい女《ひと》は、淵《ふち》の測り知るべからざる水底《みなそこ》の深き瞳を、鋭く紳士の面《おもて》に流して
「私は確《たしか》です。発狂するなら貴方がなさい、御令妹《ごれいまい》のお稲さんのために。」
 と、爽《さわや》かに言った。
「私とは、他人なんです。」
「他人、何だ、何だ。」
 と喘《あえ》ぐ、
「ですが、私に考えがあって、ちょっと知己《ちかづき》になっていたばかりなんです。」
 美しい女《ひと》は、そんなものは、と打棄《うっちゃ》る風情で、屹《き》とまた幕に向って立直った。
「そこに居る人……お前さんは不思議に、よく何か知っておいでだね、地獄、魔界の事まで御存じだね。豪《えら》いのね。でも悪魔、変化《へんげ》ばかりではない、人間にも神通《じんずう》があります。私が問うたら、お前さんは、去《い》って聞けと言いましたね。
 私は即座に、その二度|添《ぞい》、そのうわなり、その後妻に、今ここで聞きました。……
 お稲さんが亡くなってから、あとのその後妻の芝居を、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんは御存じかい。」
 幕の内で、
「朧気《おぼろげ》じゃ、冥土《めいど》の霧で朧気じゃ。はっきりした事を聞きたいのう。」
「ええ、聞かしてあげましょう。――男に取替えられた玩弄《おもちゃ》は、古い手に摘まれた新しい花は、はじめは何にも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、旭《あさひ》に向って咲いたのだと人なみに思っていました。ですが、蝶が来て、一所に遊ぶ間もなかったんです。
 お稲さんの事を聞かされました。玩弄《おもちゃ》は取替えられたんです、花は古い手に摘《つま》れたんです……男は、潔い白い花を、後妻になれと言いました。
 贅沢《ぜいたく》です、生意気です、行過ぎています。思った恋をし遂げないで、引込んだら断念めれば可《い》い、そのために恋人が、そうまでにして生命《いのち》を棄てたと思ったら、自分も死ねば可《い》いんです。死なれなければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていれば可いんです。
 力が、男に足りないで、殺させた女を前妻だ、と一人|極《ぎ》めにして、その上に、新妻《にいづま》を後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれ、といけ洒亜々々《しゃあしゃあ》として、髪を光らしながら、鰌髭《どじょうひげ》の生えた口で言うのは何事でしょうね。」
「いよいよ発狂だ、人の前で見っともない。」
 紳士は肩で息をした、その手は松崎に縋《すが》っている。……
「ええ、人の前で、見っともないと云って、ここには幾多《いくたり》居ます。指を折って数えるほどもない。夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だか知れません。
 夫も夫、お稲さんの恋を破った。そこにおいでの他人も他人、皆《みんな》、女の仇《かたき》です。
 幕の中の人、お聞きなさい。
 二度添にされた後妻はね……それから夫の言《ことば》に、わざと喜んで従いました。
 涙を流して同情して、いっそ、後妻と云うんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。そのうまれ代わりになりましょう、と云って、表向きつてを求めて、お稲さんの実家に行って、そして私を――その後妻を――兄さんの妹分にして下さい、と言ったんです。
 そこに居る他人は、涙を流して喜びました。もっとも、そこに居るようなハイカラさんは、少《わか》い女が、兄さん、とさえ云ってやれば、何でも彼《か》でも涙を流すに極《きま》っています。
 私は精々《せっせ》と出入《ではい》りしました。先方《さき》からも毎日のように来るんです。そして兄さん、兄さんと、云ううちには、きっと袖を引くに極《きま》っているんです。しかも奥さんは永々の病気の処、私はそれが望みでした。」
 電《いなびかり》が、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、撞木《しゅもく》橋、川を射て、橋に輝くか、と衝《つ》と町を徹《と
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